「そんな貧相な調色で、深い色味が表現できるか、このアホタレが」
見もしないくせに、どんな調色をしてるのか、なんで分かるんだ。男は目の前に鎮座する老いた背中を睨みつけた。
「これからはデジタルの時代ですよ。僕たちみたいな手仕事はやがて奪われる……」
「そう思うんなら、ただちにここから去れ」
ここ数年、こんな会話が増えた。この仕事を奪おうと、デジタル技術を駆使した業者が脅かしてくる。ただ、男が心配しているのは、テクノロジーの脅威ではない。自らが師事した師匠の体だ。80歳を過ぎた老体。決して簡単ではないこの仕事。決して楽ではないこの仕事。師匠はあと何年続けていけるのだろうか。そしてもうひとつ、男を脅かす存在が。それは、自分の拙い技術ではこの色を再現できないという畏怖の念だ。
「そこのグラデーションに橙が足らんのよ」
またしても老人は背中で指摘する。
師匠を裏切って最先端の奴らに寝返ろうかと何度も考えた。師匠のことが憎いからじゃない。自分の諦めから目を背けたかったから。
「ふん。今日ももう日が暮れる。また明日、チャレンジしてみろ」
「はい……」

数日前、師匠と酒を共にした。皺だらけの瞼は今にも閉じそうだったけれど、語る師匠の目はどこまでも真っ直ぐだった。
「容易く広まる流行に流されたらいかんのよ。本当に良いものってのは、時代が変わろうが永遠に続くもの。ちょっとやそっとじゃ途切れるこたぁない」
「でも、人の感性は錆びるでしょう? 師匠の感性だって、いつまで通用するのか──」
「お前はほんとに青いのう」
抜け落ち隙間だらけの歯がニッと笑う。
「ちっちゃな喜びや楽しみは、そりゃ流行りモンでも作れるわな。ワシが言うとるのは、心の中に深く刻まれるような、色褪せん感動よ。人間はどこまでいっても人間。見上げればいつもそこに空がある。ワシらには、それを染め上げる責任があるんじゃ」
腑に落ちたようで呑み込めなかった師匠の話。伝統は大切だ。でも、伝統を打ち倒すほどの流行があってもいいじゃないか。それがやがて、新しい伝統になるはず。それとも、伝統を前に自分が逃げているだけなのか。
答えは出ぬまま酔いつぶれ、老体に支えられながら未熟者は帰路に着いた。

師匠が死んだ。
起床後、階段から足を滑らせ落下。頭を激しく打ち付け、そのまま意識が戻らなかった。
息をしない老体。ベッドの脇に立ち、顔を覗く。その顔は昨日までと何ら変わらない。ただ唯一、変わったことはといえば、呆気なく伝統が消失したということ。
病室の時計に目をやる。もうすぐ正午だ。正午?
「あっ……」
男は小さく声を漏らした。師匠なき今、あの色を表現する責務が、自分ひとりに課せられていることを自覚した。重圧に手が震える。目の前で眠る師に、教えを請うことはもうできない。とにかく仕事場に行かねば。

師匠の手元は長年ずっと見てきた。細かい所作もすべて。完全にそれを再現しているはずなのに、同じ色が出せない。何度塗っても、何色を塗り重ねても、郷愁を抱かせるようなあの繊細なグラデーションが再現できない。焦れば焦るほど、眼下の色は濁っていく。顎から大量の汗が滴り落ちた。
日が傾きはじめ、納品の時刻が迫る。巨大な責任がその肩に重くのしかかる。課せられた使命。自分への劣等感。幼い頃からの表現欲求。師匠への尊敬。混濁した思考を振り払うように男は野太い声で叫んだ。そして、師匠の影を捨てることを決意した。もう、それしか方法がないと腹を括った。
「よしっ」
ひとこと呟き、男は新しい刷毛を手に取る。色を重ねるその手に、もう迷いはなかった。

やっぱりだめだった。
彼の気持ちが私のもとへ戻ってくるのを信じて、全力で思いを伝えた。でも、彼は戻ってこなかった。涙を堪えるのに必死だったけど、本音を聞けて心が晴れた。きっとこれで彼のことを忘れられる。新しい恋も探せるし、新しい自分に生まれ変われる。
女は空を見上げた。もう涙は流さない。そこには赤く染まった空が広がっているだけ。
「夕焼けは、今日もキレイだな」
新しい自分で生きることを決意したからか、昨日までとは少し違った表情の、新しい色彩が広がっているように見えた。

GuX^ V[gV[giJ