肩越しの愛

残業だけでは追いつかず、忌まわしい書類の束を抱えて帰宅した。スーパーで買った惣菜と発泡酒を流し込み、そそくさと机に座る。鼻腔をくすぐるむず痒い嫌悪感の原因が鼻毛にあると思い、手鏡を取って確かめた。
「ひぃっ!」
思わず腰抜けた悲鳴が出た。後ろを振り返ってみたけれど、ここは単身で暮らす俺の部屋。誰もいるはずがない。汗ばみ小刻みに震える手で、もう一度手鏡を顔に寄せる。
「ひゃぁ!」
またしても腰抜けた悲鳴。しかし今度は鏡から目を逸らさず、その違和感を直視する。間違いなかった。鏡に映る俺の肩越しから、色白の女が覗いていた。

「最終的にはその男に捨てられたってわけ?」
「まぁね」
「で、君とその男はこの部屋で同棲してたと」
鏡越しに女が頷く。
鏡の中に映る怪奇現象。なぜこれほどまでに落ち着いていられるのか自分でもわからない。酒に酔っているわけじゃない。けれど現にこうして俺は、鏡越しに見知らぬ女と会話している。愛した男に捨てられ、命を落としたこの部屋の前の住人と。
「要するに君、幽霊ってやつ……?」
「デリカシーがないね」
「あっ、ごめん」
彼女の名前は葉月というらしい。すごく美しい女性だ。彼女の運命がそうさせているのか、目元に深い悲しみが浮かび、それが妙に彼女の色気を際立たせている。
「あいつの不幸を確かめるまでは、成仏できない。人生の底を這うような不幸をね」
俺の肩越しで微かに笑う葉月。よっぽど男のことを愛していたんだろう。自分を裏切った男の不幸をきっかけにしないと、この世から去って行けないらしい。
それっきり彼女は無言になった。俺は残っている仕事を片付けながらも、何度か手鏡で肩越しを覗いた。彼女がそこにいるのを確かめるように。

「ただいま。ほんと疲れるよ、ウチの上層部の連中たちを相手にしてると!」
鏡に話しかけるのが日課になった。
「呪い殺しちゃえばいいのに、そんな奴ら」
彼女が笑ってそう言う。
「俺は葉月とは違うんだから、そんなことできるわけないだろ」俺も笑う。
そんな毎日が当たり前になり、一人暮らしに孤独を感じることもなくなった。以前よりもよく笑うようになった葉月。鏡の中でしか彼女に会えないことが、歯がゆくなっていた。
そんなある日、彼女は俺にある頼み事をしてきた。
「彼が今、どんな風に生きているのか調べてきて欲しいの」
「どういうこと? それで彼が不幸な生き方をしてるって知ったら、葉月は?」
「晴れてこの世界から去れる」
胸が締めつけられた。このまま葉月との時間に満たされていても、何も始まらないことはわかっている。だけど……。
「わかった。男の手がかりだけ教えてくれたら、なんとか調べてきてあげるよ」

彼女が教えてくれた情報を頼りに、俺は葉月を捨てた男の現在を掴んだ。葉月の望み通り、男は幸福とは真逆の人生を歩んでいた。
葉月を捨て、このマンションを退居してからすぐに重い病気を患い、今も入院生活を余儀なくされているらしい。葉月が幽霊になって恨みを持ち続けなくても、現世でいう『バチ』が当たって、苦しんでいた。
「どうだった?」
運命の瞬間に立ち会うように、彼女は神妙な面持ち。ありのままを告げれば、彼女はこの世から消えてしまう。俺のそばからいなくなってしまう。自分の気持ちを守るために、俺は咄嗟に浮かんだ嘘を彼女に告げた。
「奴は今でも、他の女と幸せにやってたよ。君はまだまだこの世からサヨナラできない」
俺の報告を聞いた瞬間、鏡に映る葉月の目に狂気が滲んだ気がした。
「嘘をついてまで、私と一緒に居たいと思ってくれて、ありがとう」
「えっ?」
予想外の彼女の言葉に動揺し、手鏡を滑らせてしまった。慌てて鏡を拾い、顔に寄せる。すると、いつもそこにあったはずの彼女の顔が消えていた。
「葉月……?」
涙声で弱々しく呟いた。手鏡を机に放り投げたとき、左肩に冷気がかすめた。
「これで、鏡に映らなくても会えるね。でも、これがどういうことか、わかってくれるよね」
声に振り向いた俺の頬にあてた葉月の手は、氷のように冷たかった。

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