落書き

 島田は下りたシャッターの前に立ち、愕然とした。それはまるで、大切なものをハンマーで叩き壊されたような衝撃だった。

「おとうさーん! どうしたのー?」
 ここは小さな商店街。島田が生まれ育ったのもここだ。シャッター化現象が進み、多くの店は黙ったまま。幼少の頃に島田の面倒を見てくれた店主たちも他界してしまった。
 そんな寂れた商店街にも、新しく商売を始めようとする人たちがポツポツと現れた。商店街のレトロな雰囲気を活かし、新旧をうまく織り交ぜたカフェを営む者。海外から輸入した雑貨を売る者。島田もそのひとり。
 声に反応すると、商店街の入口で手を振る島田の娘と妻の姿が見えた。
 ──どうにかしないと。

「俺、親父の店を少し改造して、商売やろうと思うんだ。それで借金を返していく」
 そう妻に打ち明けたのが事の始まり。いや、一番信頼していた友人に金を貸したまま、そいつが失踪しちまったのが、すべての始まり。
「商売って、何するの?」
「古本屋をやろうと思うんだ」
「このご時世に古本屋さん? そんなことして儲かるの?」
「儲かるさ。無類の本好きの俺が言うから間違いない」
 大丈夫かしら、と妻は何度も不安を口にした。その度に島田は大丈夫さ、と不安を打ち消した。
 今日が商売をスタートさせる記念すべき日。ガラガラガラと大きな音をたてて、景気よくシャッターを開けてやろうと意気込んでやって来た。しかし、商店街にシャッターの音は響かなかった。代わりに甲高く響いたのは、妻の悲鳴だった。
「誰よこんなひどいことしたの!」
 振り返ると、娘の目からは涙がこぼれている。娘の気持ちもわかるが、泣きたいのは俺のほうだと肩を落とし、再びシャッターを直視した。そこには、スプレー塗料で殴り描きされた女性器を模したイラストと、性交を意味する言葉。何者かの手によって無残にも落書きされていた。
「落書きを消すお金も、シャッターを取り替えるお金も、もうないよ……。本の仕入れと店の内装に、お金をぜんぶ使っちゃったから」
「そんなこと言っても、こんな汚れたシャッターの向こうで商売するなんてイヤよ」
「じゃあ、どうすればいいんだ!」
 島田は行き場のない怒りを、妻への言葉に付着させ投げつけた。
「おぉ! これはすばらしい!」
 背後から突然の声。島田は訝しげに振り返った。顎に蓄えた白髪交じりの髭を捻りながら、中年の男が目を輝かせている。
「この絵は流行りますよ。おそらく海外の前衛的な文化を熟知した者が描いたはずです」
 こんな卑猥な絵が? 悪い冗談を聞かされている気分になった。
「売ってくれませんか?」
「はっ?」
 島田の口から拍子抜けした声が漏れた。
「この絵を……ですか?」
「まさか。絵だけなんて買えないでしょう。この店ごと、ですよ」
 男はこの店を買い取る金額を提示してきた。その額は、島田の借金を全額返済してもなお、余りある金額だった。
 妻が島田の服の袖を摘む。夫の決断を待っているようだ。
「店ごと買うって言ったって、店内はそのままにしてもらえるんでしょ? だって、絵に価値があるわけだから」
「まさか! これはビジネスですよ。店内はカフェにします。絵を観に訪れた人たちがくつろげるようなカフェにね」

 借金は消えた。金も残った。しかし、親父の形見、島田が育った店は失った。
 本屋を営んでいた親父。本屋育ちの島田。当時は本屋の息子というのを辛気臭く感じ、親父にはいつも反抗的な態度をとっていた。
 小学生の頃の記憶が蘇る。店内の突き当り、親父がいつも鎮座していた木製カウンターに、島田は油性マジックで落書きをした。思春期らしい、幼く卑猥な落書き。親父はそれを見つけると血相を変えて怒鳴り、島田を殴りつけた。
「俺の店に何しやがる!」
 島田は今、工事とともに消えてしまうだろう、薄くなったその落書きを指でなぞりながら、当時を思い返している。
「俺の店か」
 眉間に皺を寄せて本を読む親父の顔が浮かんだ。そして、子どもの頃からの憧れだった本屋、いや、俺の店ってものを絶対に持ってやると眉間に力を込めた。

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