隣人

 それは気の早い夏の暑さが訪れた、ある夜のことだった。
 寝苦しさを感じた僕は、扇風機を取り出そうと、押し入れの中に身体を突っ込んだ。月明かりも届かない押し入れの中、目に飛び込んできたのは、壁から漏れる小さな光だった。
──穴が開いてる?
 気になった僕は、引っ越したときのまま放置されているダンボールを押しやり、光を目指した。
 ドアスコープほどの大きさの穴。そこから漏れ出す光。それは、隣人宅の光だった。
 イケナイことだとは知りつつも、僕は室内の様子を覗き見た。そこには女性の姿があった。サラサラと風になびく長い黒髪が印象的な女性。たまにゴミ捨て場ですれ違う。僕より少し年上を思わせるスタイルのいい女性だ。
 薄手のルームウェアに身を包んだ彼女は、濡れた長い髪をバスタオルで乾かしながら部屋に現れた。きっと風呂上がりなのだろう。
 隣の部屋に聞こえているのでは、と心配になるくらい、唾を飲み込む音が押し入れの中に響いた。血色のいい彼女の肌から目が離せない。禁断の行為がもたらす興奮。血液が身体中を駆け巡るのを感じた。

 社会に出て二度目の夏がもうすぐやってくる。就職と共に引っ越してきたこの街。都会で生まれ育った僕にとって、郊外の暮らしはとても新鮮だった。この狭いワンルームマンションでの暮らしも。
 結局、昨夜はなかなか寝付けなかった。睡眠を邪魔する暑さのせいもあるけれど、穴から覗く光景が脳裏に焼き付いていたからだ。
「おはようございます」
 いつも通り玄関を出たときだった。艶のある声。隣の女性も出掛けらしく、僕に声をかけてきた。一瞬にして昨夜の湯上がりの肌が思い浮かぶ。
 部屋を覗いていたことがバレているんじゃないかと不安になり、思わず俯いてしまった。
「──おはようございます……」
 足元を見つめたまま小さく返事をした。彼女はそんな僕の態度を不審がる様子もなく、「昨夜は暑かったですねぇ」と言葉を継いでくれた。
 安心して彼女の顔へと視線を向ける。その表情に笑みが浮かんでいる。そのとき僕は確信した。彼女に恋をしていることを。

 彼女の部屋を覗くことは、僕の日課になった。そんなある日、彼女の部屋からドタドタと大きな足音が聞こえてきた。慌てて押し入れに潜り込み、漏れ出す光を目指す。見慣れた部屋の中に、スーツに身を包んだ男の姿があった。
 二人の間には、仲睦まじい雰囲気が漂っている。どれほど鈍感な人間でも、その男が彼女の恋人だってことに気づいたはずだ。
 彼女が激しく男に抱かれる一部始終を見せつけられた。眉間に皺を寄せ、男が与える快感に溺れる彼女。それはすべての臓器を握りつぶされるほどに苦痛な時間だった。目を逸したい気持ちとは裏腹に、隅々まで目に焼き付け、自分を壊そうとするもうひとりの僕がいた。そして、その日から彼女の部屋を覗くことをやめた。

 マンションの前に止まった大型トラックの音で目を覚ました。休日の早い時間に起こされると無性に腹が立つ。もっと眠っていたいのに。
 妙な胸騒ぎを感じた僕は、ベッドから身体を起こし、忌避し続けていた押し入れの穴へとにじり寄った。あの日の映像が脳裏に浮かび、胸が締め付けられたが、何かに突き動かされるように穴に目をやった。すると、部屋にあったはずの家具がすべて消えていて、彼女の姿もそこにはなかった。
──まさか。
 衝動的に部屋を飛び出し、マンションの前へと駆け出した。
 予感は的中。彼女は引っ越してしまう。
 引越し業者のトラックの脇に立っている彼女のそばに駆け寄った。
「引っ越しちゃうんですか……?」
 涙が溢れそうだった。
「そうなんです。付き合っていた人と別れちゃったから。もうこの街に居る必要もないかなって……」
 彼女の笑顔はあの時のまま。僕にとって彼女は、僕の心を支配する憧れの存在だ。
 僕は意を決し、打ち明けた。おそらく人生史上、最も大胆な行動だったはずだ。
「あなたのことがずっと好きでした……。付き合ってください!」
 風が彼女の長い髪を揺らす。細い指で髪をとかしながら、怪しげに微笑む彼女。
「これからは穴からじゃなくて、直接私のことを見てくれるのね」