あの広い世界にあこがれて

 今日、ボクはここに異動になった。グルッと世界を見渡してみる。これまでは狭い社会にいたけれど、ここはもう少し広いみたいだ。
「おい、新入りが来たぜっ」
 どこかからそんな野太い声が聞こえてきた。声の主を探してみると、ボクよりはるかにガッシリした身体つきの男。怪訝な顔をして眺めるボクの視線を感じ取ったのか、そいつはボクのそばへとやってきた。
「おい、そこの弱っちいやつ!」
 とりあえず、聞こえないフリをしよう。
「コラッ、聞こえてるだろ! こっち向けよ。おまえに話しかけてるんだ!」
 仕方がない……。ボクはそいつのほうに向き直り、ペコリと挨拶した。
「お前、めちゃめちゃ弱そうじゃねえか。こんな世界に連れてこられて大丈夫なんか?」
 別にボクが望んでここへ来たわけじゃない。ボクがここを選んだわけでもない。ボクたちに選択肢なんてあるわけない。そんなこと、こいつも承知のはずじゃないのか。
「お前、親は?」
「いるわけないだろ……」
「そりゃそうだな。この世界に親と暮らせるような恵まれた奴がいるわけないもんな」
 男が話している最中だった。肌色の木のようなものが、強烈なスピードで上から降ってきた。
「ギャッ!」
 恐怖のあまり、ボクは男の陰に隠れた。
「新入りよ、この世界ではいつ命を落としてしまうかわかったもんじゃない。ボーッとしてると、一撃で仕留められる。夜になるまでは、今みたいな危険と常に隣り合わせだ。いいか、絶対に気を抜くなよ」
 身体の震えが止まらない。あんな恐怖がずっと続くの? そんなの聞いてないよ……。
「この世界じゃ、俺たちは逃げることしかできない。つまり、戦うことはできないってこと。それだけは肝に命じておけ」
 逃げることしかできない世界? 戦えない世界? そんな世界があっていいものか。

 その後も幾度となく襲ってくる木の襲来に萎縮してしまい、ボクを新入りと呼ぶ奴の後ろをひたすらについて回った。そいつはボクに特別な興味を示すわけでもなく、かといって、付きまとうボクを疎ましがることもなかった。いつしかボクは、そいつに親近感すら覚えていた。
「なぁ」話しかけてみる。
「なんだ?」
「ボクたち、いつか広い世界に戻れるだろうか? どこまで行っても果てのない、あの自由な世界に戻れるだろうか? あの広い世界ではきっと、ボクの両親がまだ生きていると思うんだ。だからボクは、ボクを産んでくれたお母さんとお父さんに会ってみたいんだ」
 奴はこちらを振り向きながら、珍しく静かな口調で呟いた。
「生きていれば、いつか会えるさ」
 その表情はどこか寂しそうだった。もしかすると奴も、同じ気持ちを抱いているのかもしれない。
 広い世界を思い描きながら呆けた瞬間、頭上に大木の影が現れた。
「おい! 危ねえぞ!」
 叫びながら奴はボクに体当たりしてきた。その衝撃で吹き飛ばされたボクは、なんとか大木の攻撃を受けずに済んだ。安心して胸をなでおろした直後、次は二本の木が猛烈な勢いで襲ってきた。その木はボクを襲うのではなく、奴の身体を目がけて降り注いできた。
 その二本の木は、有無を言わせぬスピードで奴の身体を掴み、頭上へと引き上げる。奴の姿は一瞬にして目の前から消えてしまった。
「……おい、嘘だろ……?」

「メイちゃん、大きいの捕まえたねぇ!」
 そこは都内にある、鮎つかみ体験ができる公共施設。休日ということもあり、多くのファミリーで賑わっている。
「メイね、この子に名前をつけたの! 『アユ太』って名前。この子は今日からメイの友だちなのっ!」
 娘のその言葉を聞いて、母親は表情を曇らせた。
「メイ……。残念だけど、その子とは友だちでいられないのよ」
「なんで? メイが捕まえたんだよ! メイの友だちでいいじゃない!」娘は反発した。
 黄色いジャンパーを着た施設のスタッフが家族のもとへ近づき、「では、塩焼きの準備をいたしますね」と、快活に言い放った。
 母親は娘の手から鮎の入ったビニール袋を取り上げ、スタッフに手渡した。
 もがきながらスタッフの後を追おうとして制止される娘。その家族が施設をあとにするまで、少女のすすり泣きはやまなかった。