幻の迷店

「ほんまですか? ワシの店が選ばれたんですか? 何かの間違いやと思いますけど……」
「いいえ。厳選なる審査の結果、《いそ八》さまがミシュランの一つ星に選ばれましたので、こうして掲載交渉にお伺いいたしました」
 細身のスーツ姿に真っ白なフレームのメガネ。店の雰囲気にそぐわない女性が、権威を誇示するように立っている。店主の磯田は二回りも年下であろうその女性を、未来からの使者でも見るような目つきで眺めた。
「常連しか来ないこんな場末の炉ばた屋が、ミシュランなんかに選ばれるもんですかねぇ? いまだに信じられへんのですが……」
 磯田はしきりに眉を掻きながら、何度も小首を傾げた。

「磯やん、店の雰囲気えらい変わったなぁ!」
 年季が入り開閉に苦労する店の引き戸を閉めながら、常連の牛田が声を上ずらせた。
「そうですねん。ガラッと変わったでしょ」
「そうですねんってあんた。えらい他人事みたいに言うて」
「なんかウチの店、ミシュランの一つ星に選ばれたとか言われて。これから海外のお客さんも増えますよ、言われたもんで……」
「えっ? いそ八がミシュランに選ばれたん? それは嘘やろ?」
 牛田は受け取ったおしぼりで手を湿らせながら、でっぷりした腹を震わせ豪快に笑った。
「こっちかて嘘やと思いますやん。それがほんまや! 言うんやから仕方ない。看板からメニューから、全部やり変えましたわ」
「その割には磯やん、えらい浮かん表情してるやん。なんかあったんか?」
「なにかあったもクソも、おおアリやん。喜んでる場合やあらへんで。牛田さん、ちょっと聞いておくれや……」
 ボヤキ混じりにサーバーから慣れた手つきでビールを注ぎ、牛田に手渡した。

「誠に申し訳ございませんでした!」
 権威という名のスーツを着飾った女性が店に現れたのはあれから一週間後のことだった。明らかに高級そうな手土産を持っていることから、磯田は胡散臭さを感じ取っていた。
「この度のミシュラン掲載に当たり、磯田さまのお店を取材させていただきましたが、実は掲載が決まったのは他店だったということが判明してしまい。私のミスです……」
 口を蛸のように突き出し、「へっ?」と、拍子抜けした声を漏らした。
「そんなことあるんですなぁ……。まさかとは思ってましたけど、そのまさかですわ。ちなみに、どこの店と間違いはったん?」
「お隣の……《割烹なにわ》様です……」
「でしょうね、でしょうね! そりゃそうですわ! どう考えてもなにわさんでしょ。ウチの店に入ってきたとき思いませんでした? ミシュランがこんな小汚い店を選ぶかねって。誰がどう見ても、なにわさんでしょ。隣の店やねんから、迷うわけあらへんのに」
 取り乱してはいるものの、気品を損なうことなく女性は深々とお辞儀し謝罪を続けた。
「まぁ、いいですけどね」
「でも、お店もこうしてリニューアルされ、ご費用も安くなかったはず。私のミスと軽率な発言により、こうして多大な損害を出してしまい……どのように償っていいものか」
 まぁまぁと、磯田は女性の肩を軽く叩いた。
 顔を上げた女性は何か閃いたのか、急に表情を明るくした。
「磯田さま! 私はグルメブログをやっておりまして!」
「ブログ?」
「はい、世界中の皆さんに読んでいただく日記のようなものでございます。ブログでこの《いそ八》様を取り上げさせていただきます。かなりの読者数を抱えておりますので、大きな宣伝につながるかと!」
 自らの思いつきに勝機を見出したのか、女性は浮かれた顔で店を後にした。

「磯やん、店、えらい繁盛してるやん!」
 重い引き戸を力任せに閉めるなり、ほぼ満席状態の店内を眺め、牛田が驚嘆した。
「そうやねん。例の女性が日記で取り上げてくれた途端、話題になってしもて。珍しいもの見たさに客足が途絶えませんわ」
「珍しいもの?」
 牛田は目を丸くした。
「取り上げられ方が、『ミシュランから星を奪われた幻の迷店』やで。そりゃみんな、興味本位で足を運ぶでしょうよ」
「喜んでええのか微妙やな」
「まぁ、たくさんの人に来てもろて、ちょっとしたスター気分を味わってますわ」
 奥のテーブルからお呼びがかかると、磯田は往年の俳優を気取るかのように、芝居がかった仕草で振り向いた。