首元のボタン

 この瞬間、いつも苛立ちを覚える。
「由美さん……ありがとうな」
 寝間着を義父に着せる。上から二つ目のボタンをとめているとき、義父は決まって礼を言う。私の表情は、引きつっているはずだ。それを見て義父は、どう感じているのか。
 首元までボタンをとめようとすると、それを拒む日もあれば、拒まない日もある。いちいち確認するのも億劫だから、とりあえず首元のボタンもとめてみる。上は開けておいてくださいな。拒まれる。睨みつけたい衝動を抑え、義父の部屋を後にする。
 介護。
 その日は突然やってきた。夫の清正の単身赴任が決まった日、義父の清治が病に倒れた。若い頃に妻を亡くした義父は、それまで一人で暮らしてきたため、看病してくれる人も介護してくれる人もいなかった。
「なあ、お父ちゃんのこと、介護してやってくれないか?」
 そう言われることは覚悟していた。
 夫が待ち望んでいた海外拠点への転勤。昇格することは間違いない。会社からの待遇が良くなれば、これからの暮らしも楽になる。それが夫の意見だった。夫を支えるのが妻の仕事。夫が自由に羽ばたけるよう、バックアップするのが妻の役目。私に拒める権利なんてない。拒んだところで、世間の目が放っておかないだろう。義父の介護を拒否した妻。そんなレッテルを貼られるのも嫌だった。

「すまないねえ……」
 介護初日。老人特有の口臭が鼻を突いた。
 筋肉が弱り、手足が自由に動かなくなった義父にとって、寝間着のボタンを止めるのは困難だった。誰かの力を借りなきゃならない。誰の? もちろん私しかいない。
 いくら義父でも、体温が伝わるほど体を寄せるのには抵抗がある。これから先、入浴も困難になったりするのだろうか。そうなる前に、清正には帰ってきてもらわないと。
「これから、よろしくお願いしますね」
 まるで介護施設のスタッフのようなセリフ。規則正しく並ぶ寝間着のボタンが、これから先の終わらない毎日を予感させた。私は作り笑いのまま、義父から目を逸した。

 納得の行かない介護がはじまってから半年近くが経ったころ、家の裏にある市場で火事が起こった。
 消防車のサイレンが鳴り止まない。一帯を包囲するほどの数の消防車。救急車も来ているところを見ると、負傷者がいるようだ。
「豆腐屋が火元らしいぞ!」
 表で誰かが叫んだ。火事の情報を仕入れた野次馬の誰かが叫んだのだろう。
「由美さんやあ……」
 背中で義父の声がした。
「お義父さん。どうしたの?」
「表に連れて行ってもらえんかのう」
「何を言ってるんですか! 火事ですごい人だかりなんですよ。車椅子に乗って出られるわけないじゃないですか」
 野次馬に参加したいのか、義父は突然、表に出たいと言い出した。日頃の無気力な表情とは違い、どこか鬼気迫るものを感じた。
 別に連れ出してあげてもよかったが、義父の言ったひと言で、その気が失せた。
「表に出る前に、首元のボタンだけとめてくれんかのう」
 この期に及んで身だしなみに気を使う、その神経に腹が立った。
 私は無言で家を飛び出し、野次馬の中に溶け込んだ。義父をその場に残したまま。

「由美ちゃんのとこは被害がなくてよかったねぇ」
 火事から三日後。焼け跡の前でばったり会った近所のおばちゃんたちと立ち話。
 民家に火は燃え移らなかったものの、市場は全焼した。火事で亡くなったのは、火元とされる豆腐屋のおばあちゃん、ただ一人。
「すみ江さん、亡くなってしもうたの」
 腰の曲がったおばあちゃんが、どこからともなくやってきて、ポツリと呟いた。
「あんたのとこのお義父さん、清治さんの初恋の人やったんやよ」
 胸が締め付けられた。だからあの時、義父は火事の現場に行きたがったんだ。初恋の相手を心配して。何もできないと分かっていても、駆けつけようとしたんだ。
 自分の卑劣さに腹が立った。介護される側も、自分の人生を歩む、ひとりの人なんだ。たとえ同情心でもいい、優しくしよう。介護が好きだなんて、とても言えない。でも、義父のことをもっと知ろう。
 気づけば、自分のブラウスの、首元のボタンにそっと触れていた。