消さない記憶

 イジメになんか絶対に屈さない。あんな奴らには、絶対に負けない。私にとって消し去りたい記憶。毎日を消しながら生きてやる。
 そう心に誓ってから、私は一日も学校を休まなかった。ただ、登校しても、私はクラスの一部にはならず、ひたすら消しゴムで机の上を擦るだけ。六限目の授業が終わり下校するまでの間、延々と机の上を消しゴムで擦り続ける。これが私なりの、イジメへの抵抗。媚びたら負けだ。学校を休めば負けだ。誰にどう思われたってかまわない。私はこれをやるために学校に来てるんだ。そう思い込むことで、自分の居場所が確保できた。
 私の机の木目は、ヤスリをかけたようにツルツル。席の周りは、消しゴムのカスだらけ。誰とも目を合わさず、誰とも喋らない。それが私の高校生活のすべて。
 あいつ、気持ち悪いんだけど。聞き慣れたセリフ。頭おかしいんじゃない。それももう聞き飽きた。私の正常な高校生活を奪ったあいつらへの復讐。悪いけど続けさせてもらう。高校生活が終わるその日まで。嫌なら、お前らが出ていけばいい。

 あっ。ヤバイ……。消しゴム、忘れてきちゃった。
 昨日、新しいやつを百均で買って、上着のポケットに入れたままだ。どうしよう。消しゴムがないと、ここにはいられない……。
 不安が冷や汗を滲ませるのを感じていると、右隣から『uni』と書かれた青いカバーの消しゴムが飛んできた。
「忘れたんなら、それ使えよ」
 隣の席に座る森村が、声をかけてきた。
「あっ。でも……」
 あまりにも突然のその優しさに、お礼を言えばいいのか、拒めばいいのか分からなくなった。迷った挙句、首だけを小さく縦に振り、その消しゴムで私という存在を保った。

「ありがとう……」
 森村は私にとって、今日という日の恩人だ。私が私を保てなくなるところを救ってくれた。借りたものは返さなくちゃ。下校する森村を待ち、駐輪場で声をかけた。
「なんだ、まだ帰ってなかったの?」
「うん」
「いっつも爆速で帰るのになぁ」
 森村が笑った。私もつられて笑った。学校で笑うなんて、いつぶりだろう。
「これ……返すね」
「あぁ。あげるよ、それ」
 また、森村が笑った。受け取らない気だ。
 返す、要らない、を何度か繰り返しながら、私と森村は並んで歩いて帰った。
「琴崎って、強いよなぁ」
「え?」
「ああやって、毎日を耐えてんだろ?」
 森村は私の理解者だろうか。それとも、やっぱり周りの連中と同じ、敵?
「別に、耐えてるとかじゃないよ……」
 うそぶいた。
「そっか。耐えてないか。だって、お前のやりたいことやってるんだもんな」
 バカ。あんなこと、やりたいことのわけがない。私だって、もっと高校生らしく生きたい。むしろ、やりたくないよ、あんなこと。
 涙が溢れた。
「いつか消えればいいな、こんな毎日……」
 涙のついでに言ってみた。それに気づいたのか、森村はさりげなく背を向け、私の涙を見ないふりをした。

 森村が事故で亡くなったのは、それから二週間後のことだった。私に優しくしてくれた森村はもういない。ロクでもない連中ばかりがここに居続け、本当に必要とされる人間は消えて行く。
 しばらくの間、森村を欠いたクラスには、非日常的な時間が流れたものの、気づけばまたいつも通り。日常に戻ろうとするその無情な治癒力を恨んだ。
 ふと、あの日の帰り道、森村に返しそびれた消しゴムのことを思い出した。カバンから探し出し、そっと手に取る。青いケースに『uni』の文字。あの日、私の居場所を保ってくれたコイツの先は、私の身代わりを引き受けた代償で、すっかり丸くなっている。
 何気なくカバーを外してみた。すると真っ平らな消しゴムの地肌の上に森村の不器用な文字。
『琴崎が好きだ』
 なんで、いなくなったんだよ……。
 また、涙が溢れた。
 こんなところに書いちゃ、いつか消えちゃうじゃない。
 消えて欲しくない記憶。私は消しゴムをカバーに戻すと、森村の気持ちを確かめるように、一度だけ机の上を滑らせてみた。