女湯

 長年の俺の夢が叶う。ドアノブにかけた手に汗が滲んだ。ついに、女湯に入れる。
 ゆっくりとドアを開け脱衣所へ。小狭い脱衣所の中には、女が三人。誰も俺を見ようとすらしない。そりゃそうだろう。
 三人のうち、一番スタイルのいい女に近づく。女の使っているロッカーの隣を選んだ。他にもたくさんロッカーが空いているのに、なぜ隣を選ぶんだと、女は怪訝な目を俺に向けたが、すぐに湯上りの作業に戻った。
 興奮が昂ぶってきた俺は、隣の女に声をかけてみた。
「ここって、露天風呂ありましたっけ?」
 静かな脱衣所の中に俺の声が響く。まさか話しかけられるとは思っていなかったのだろう、女は少し動揺した様子を見せた。
「ありますよ」
 男湯も似たようなもんだが、女湯も淡々とした雰囲気なんだな。温泉好きのおばちゃんでも大勢いれば、室内の様子も変わるのだろうが、今ここにいる女たちは全員若い。客同士のコミュニケーションなどめったとないんだろう。
 女の意識がうっすらと俺に向けられているのを感じながら、服を脱いで行く。アウターを脱ぎ、シャツとスカート。あとは下着を脱いで全裸になった。
「露天風呂、たのしみ」
 ポツリと呟いてみた。女の視線を感じる。俺の身体のどの部分を見ているのだろう。そんなことを考えていると、脳髄が突き刺さされるような快感に襲われた。視線に呼応するように、女に目を向ける。シルク地の小ぶりなパンツしか身に着けていない女の身体を眺める。俺の視線があまりにも舐め回すようなものだったからか、女は警戒するように俺に背を向け、着衣を続けた。

 性転換手術を受ければ、男だって女の姿になれる。そう思いついたのは三年前。あれから俺はそれに情熱を注ぎ、金を貯めては美容整形を繰り返した。最終的には、男を完全に捨てる性転換手術をタイで受けた。術後は激しい高熱と激痛に襲われ、死にたいとさえ思ったが、痛みに耐えれば耐えるほど、俺の情熱はますます燃え上がった。
 現代の美容整形の技術は素晴らしく、俺の容姿は、そこら辺の女よりもはるかに見栄えした。自分の美しい裸体を鏡に映し、何度も確かめたし、暇さえあれば自分の性器を愛撫した。普通の女が嫉妬するようなプロポーション。情熱の果てに、俺はそれを手に入れた。
 ただ、俺の目的は自分の肉体じゃない。女と化した俺が、女の世界を闊歩すること。女湯に入ったり女子トイレに入ったり、禁断の女の園へと自由に足を踏み入れることだ。そのために、俺はすべての情熱を注いできたんだから。

「キャーーッ!」
 湯船に浸かっていた俺の耳に、悲鳴が飛び込んできた。湯船を行き交う女体をじっくりと観察していた興奮が、一瞬にして恐怖心に変わった。まさか、バレたのか? そんなバカな……。
「変態がいるんです!」
 悲鳴を上げた女が誰かに叫んでいる。俺が女湯に紛れ込んでいるのがバレたんだ。もはや疑いようがない。俺は露骨に焦った。同じ湯船に浸かっていた二人の女から怪しまれるほどうろたえた。
 乱暴に湯をかき分け、湯船から飛び出た。どこへ逃げればいいんだろう。隠れたほうがいいのか。露天風呂から外へ逃げ出す方法はないものか。見つかれば捕まる。俺の長年の夢が、初日にして終わってしまう。これじゃ何のために金と時間を費やしてきたのか分からない。早く逃げないと。
 そんな俺に思わぬ言葉がかけられた。
「今、湯船から出ないほうがいいんじゃないですか? 向こうに変態野郎がいるみたいだし。ここでジッとしてたほうがいいかも……」
 声の主は、湯船に浸かっていた女の一人だった。変態野郎は俺じゃないのか? 騒ぎの原因は俺じゃないのか? 俺は女の言葉を聞き入れ、素直に湯船に戻った。
「変態って、どんなヤツでしょうね……」
 恐る恐る、女に声をかけた。
「この温泉、前にも変態が出たらしいですよ。予約サイトの口コミにも書いてあったから。女装して、女湯に侵入してくる変態男がいるってウワサ。まったく男って、ほんと最低ですよねぇ」
「女装……」
 俺のは女装なんかじゃない。俺は女だ。やっぱり変態は別にいるんだ。俺じゃないんだ。安心した俺は、湯船の湯をゆっくりと手ですくい、自分の胸にかけた。

「ちゃんと監視してくれなきゃ困ります。安心して温泉に浸かれないじゃない!」
「すみません。防犯カメラを設置したり、入り口に人を立たせたりと、セキュリティは強化していたんですが……」
 三十代後半と思える女が、ヒステリーに声を張り上げる。温泉の従業員の男は、さっきからずっと平謝りだ。
「で、犯人は捕まえたの?」
「それが……。逃してしまいまして」
「バカじゃないの? 何度も同じことされてるんでしょ? なんで捕まえられないのよ! こんなんじゃ、利用するお客さん、いなくなるわよ! ねぇ?」
 女は俺に目を向け同意を求めてきた。まったく同感だと言わんばかりに、眉間に皺を寄せて頷いてみた。
「本件、警察に届け出る必要がございますので、被害に遭われましたお客さまのお名前とご住所とお電話番号だけ頂戴してもよろしいでしょうか?」
 またしても予期せぬ事態。宿泊とは違い、温泉だけなら身分を明かさなくても利用できるからと、ここを選んだ。身分を偽ったりすると、後々、面倒なことになりそうだと思ったからだ。
 隣に座る女は、もうっ、と鼻息を荒げながら、個人情報を従業員に伝え始めた。次は俺の番だ。仕方ない。捏造するしかない。
 俺は咄嗟に思いついた名前、桜井綾乃であることを伝え、幼少の頃に過ごした町の住所と適当な電話番号を答えた。
「え? あなた、今なんて言った?」
 俺の後ろに座っていた女が声を上げた。
「坂井町って言ったよね? 桜井綾乃?」
 咄嗟に思いついた嘘を復唱されたことで、一気に心拍数が上がった。捏造した情報に注目が集まるなんて、あり得るのか?
「あなたね……」
 その女は立ち上がり、俺の前に歩み出た。早まる女の呼吸が俺を威嚇する。できるだけ事を荒らげないよう、俺は目を伏せていた。
「お知り合いですか?」と、従業員。
「知ってるも何も……」
 女の低い声とともに、頬に痛みが走った。俯いていたので見えなかったが、どうやら女に頬を引っ叩かれたようだ。急な展開に頭が真っ白になった。
「あなたね。ウチの旦那をその気にさせて、私から彼を奪ったのは。あの恨みは一生忘れない。だから、あなたの名前だって、一生忘れない! 私の夫は高橋翔太だけなのよ! 私の夫を返してよ!」
 もう一度、頬を叩かれた。顔を上げてしまうと、さらに面倒なことになりそうだったので、俺はずっと俯き続けた。
 どうやら、俺、いや、偽名として使った桜井綾乃という女は実在して、俺の頬を打っている女の旦那と不倫していたようだ。こんな偶然があるだろうか。女湯に入り込んでいる俺が言うのもなんだが、これは完全にとばっちりだ。
 トラブル続きで、従業員は困り果てている。まぁまぁと女の肩を押さえ、なだめているが、女の怒りは収まらない。
 俺が偽名を使っていることを明かすわけにはいかない。桜井綾乃になりすまして、女と口論する義理もない。もちろん、俺が性転換手術を受けて、見た目が女になった男だってことをバラすわけにはいかない。
 目の前の女が実は男だなんて驚愕の事実を突きつけられれば、怒り狂う女だって、腰を抜かして黙り込むに違いない。夫を奪った女の存在なんて、一瞬にして吹き飛ぶだろう。それを思い浮かべると、思わず笑い出しそうになった。
 ごめんなさい。ボソリと呟き、俺は立ち上がった。従業員は困り顔。女は出て行こうとする俺を制止している。さっきまで変態野郎に怒っていた隣の女は気まずそう。逃げるの? と背中に怒声が投げられた。逃げるんじゃない。笑いを我慢するのに限界がきたんだ。俺には逃げる理由なんてない。いや、あるか。俺はここにいちゃいけない人間だからな。
 そのまま俺は、振り返ることなく、女湯を後にした。

「俺は興味本位で、その旦那ってやつを探したのさ。幼少期に俺が住んでいたのは小さな町だし、女の口から高橋翔太って名前も聞いてたから、探すのは簡単だったよ。彼は確かに魅力的だった。桜井綾乃って女が惚れたのも頷ける。女らしくなるために、女性ホルモンを打ち続けていた俺の心は、どうやらすっかり女になっていたみたいで、俺は一瞬にして彼に恋してしまったんだ。彼にアプローチを続け、俺は彼と付き合うことができた。その頃は、本物の桜井綾乃とも既に別れていたし、付き合ってる女もいないようだったから、意外なほど簡単に落とすことができた。彼は俺の心も肉体も、そのすべてを激しく求めた。あんな情熱的な男を、女が放っておくわけがない。温泉で俺の頬を張った女には悪いが、あの手の男には、永遠に女が寄ってくるだろうな。彼に抱かれていると、俺の中にたぎっていた、女湯を覗きたい、女子トイレに入りたい、そんなちっぽけな欲望は消え去っちゃったよ。一人の女として、彼を愛していたし、完全な女として、彼をこの身体に受け入れた。女になって、女の世界を闊歩してやろうなんて考えていたのがバカらしかった。男に愛される女は、あんなにも快感に溺れられるんだって。男が知ってる快感なんて、比べ物にならないくらい、それは激しかった。だから俺は、彼に愛されることで、知るつもりのなかった女の悦びってやつを知ってしまったのさ」

 場末の立ち飲み屋。会社帰りに初めて寄った店。偶然隣に立った男が、焼酎を片手にしゃべり続けている。性転換手術を受けたこと、女湯に入ったこと、偽名がきっかけで、ひとりの男と付き合ったこと。
 普段は、行きつけの店にしか行かないけれど、たまにはこんな店もいいなって思った。こんな店じゃないと巡り合えない出会いや、聞けない話もあるもんだ。遠い目をしながら語る男の横顔を見ながら、そんな風に思った。
「なるほどねぇ。人にはいろんな人生があるんですねぇ。でも、ひとつだけ疑問があるんですけど……聞いてもいいですか?」
 男が語る話とは辻褄の合わないことがあったので、興味本位で聞いてみたくなった。
「なに?」
「女湯に入れるくらい、女同然の身体になったんですよね? それなのに、どうしてそんな男っぽい……というか、ヒゲまで蓄えて。身体だって、すげえガッシリしてるし」
「あぁ。これ?」
 男は自分の二の腕を揉みながら言った。
「男を愛するようになってから、自分の中に、男湯に忍び込んでみたいって欲求が芽生えてね。それで、半年前に性転換手術を受けたのさ。見た目を男にするためにね」