心霊写真

 カビ臭いにおいが鼻を突く。差し込む月あかりに、うっすらと照らされた古ぼけた廊下。幼い頃に通院していた小児科の廊下を思い出した。何人もの患者さんが待合室の椅子に腰掛け、名前を呼ばれるたびに、診察室へと吸い込まれて行ったんだろう。
「都会のすぐ近くに、こんな心霊スポットがあったなんて知らなかった……」
 ひとりぼっちじゃないってことを確かめたくて、彼への問いかけに少し声を張った。
「意外と知られていないスポットなんだ。テレビや本でも特集されたことがないからね。ふざけてここに足を踏み入れた奴らが、原因不明の事故や事件に巻き込まれ、相次いで命を落としたみたい。危険過ぎるからって、かなり前に完全閉鎖されたんだ」
 とっておきの心霊スポットに連れて行って欲しいと彼にせがんでみたものの、これまでのスポットとは様子が違う。ここには悲しみの感情が充満している。心拍数が高くなってきた。ちょっと落ち着かなきゃ。肩の力を抜き、大げさに唾を飲み込んでみた。
「この病院って、何年前に閉鎖されたんだっけ……?」
「十五年前……」
 私は足元を指差し、目を向けるよう促した。スマートフォンが照らすライトの先には新聞紙。一面記事がこちらを見つめている。
「この新聞、二週間前のものだよ……」
「えっ? そんなバカな……」
「ほら……」
 視力の悪い彼は、腰を折り曲げ、床に落ちた新聞紙を覗き込んだ。
 声を失った彼と顔を見合わせた瞬間、廊下の先で何かが動く気配を感じた。閉鎖されて、立入禁止になった病院。人がいるはずもない。反射的にカバンの中に手を突っ込み、カメラを取り出した。

「彼は医者だった。この病院で勤務していたのよ。結果的に恋人でもなんでもなかったんだけどね……」
 女は遠い目をした。
「それで、ここに?」
「あの人の子どもを身ごもった私は、それを伝えたくて、夜勤の彼を訪ねたの。結局、彼には伝えられなかったけど。彼は別の看護師と、お楽しみ中だったのよ」
「それはお気の毒に……」
「それも、待合室の椅子の上でね。ギシギシと騒がしい音をたてて。あまりに悔しくて涙も出なかったわ。一部始終を目に焼き付けてやろうって、私、そこの柱に身を潜めて行為を見続けた。視線を外すことさえせず。彼らの愛欲の悦びが果てるまでね」
「ひどい話だ! 君がここに留まる理由がわかったよ。彼にはちゃんと伝えたの?」
「そんなこと、彼に言えるわけないじゃない。お腹には子どもだっていたんだから。捨てられるに決まってる。どうせ、私のほうが遊びだったのよ。あの看護師を抱く彼の熱情は、まるで別人だった。私には注いでくれない愛情がそこにはあったから」
「じゃあ、言わずじまい?」
「言わずじまいどころか、会わずじまい。彼の情事を見届けた後、衝動的に屋上にあがったの。エレベーターも使わず、階段を一段ずつ踏みしめながら。まるで天国に近づいて行くみたいな感じだった。なんの迷いもなく、屋上から飛び降りたわ」
 弧を描く女の指先は艶めかしかった。当院の医師だった男は、自分が弄んだ女が、ここで自殺したことを知って、どう思ったのだろうか。男が殺したのは、彼女だけじゃない。お腹の子どもだってそうだ。
「その人は今も……」
 生きていて、まだこの病院に勤めているのか聞こうとしたが、遮られてしまった。
「誰か来たみたいね」
 女が廊下の先を指差す。かすかに木が軋む音が聞こえた。足音の数からして、二人。どうやら来客のようだ。
「彼が生きていようが死んでいようが、幸せだろうが不幸だろうが、私には関係ない。私の中の情念は永遠に消えることはないから」
 女は僕の手を引き、足音のほうへと誘った。小さな明かりが見えた。どうせ、スマートフォンのライトだろう。
 目の前には若い男女。女子のほうが度胸を据えていそうだ。僕らの気配に気づいた女子は、カバンに手を突っ込むと、勢いよくカメラを取り出した。コンパクトなデジタルカメラ。小さなレンズを僕らのほうに向けた。
「また、あのメーカーのカメラだぁ! あそこのメーカーのやつ、目のクマが強調されて写っちゃうからイヤなのよねぇ。仕上りが老けて見えちゃうの……。どうせだったら、もっといいカメラで撮って欲しいわ」
 女はそう言いながら、手にしたファンデーションを目元に塗った。