神対応

 目の前に差し出された油っぽい手にそっと触れ、優しく包み込む。目を閉じ、口唇の要求を受け入れた。
「カノンちゃんって、ほんと神対応っ! いつも応援してるからね!」
 ファンの中でも特に大切にしなきゃいけない男性。選抜メンバー大選挙で、いつも大量のCDを買ってくれてる。私の生命線。
「いつもありがとうございますっ! この後のミニライブも楽しんでくださいねっ!」
 彼は強く手を握り返してきた。じっとりと汗ばんでいる。何かを決意したのか、彼はワタシの耳元に顔を寄せてきた。
「髪の毛、触ってもいいかな……?」
 胃液の臭いを含んだ息を感じた。熱を帯びた声。かなり興奮しているみたい……。
「どうぞ!」
 緊張をほぐしてあげなきゃ。再び目を閉じてみる。彼の指の感覚が、髪の毛を通じて伝わってきた。肩口に垂れる毛先からつむじの辺りまで、ゆっくりと這ってくる。しばらく髪に触れていた彼は急に、「ありがとう。今日も頑張ってね」と言い残し、ブースから去って行った。満足してもらえただろうか。目を開けてたほうがよかったのかな……。

 ワンルームマンションの狭い部屋。オモチャのようなインターホンの音が鳴った。
「あっ! 今日、カノンちゃん、家に来てくれる日だったっけ?」
「そうですよぉ。もしかして、カノンが来るの、忘れてたとか?」
「忘れてるわけないじゃん!」
「ウソばっかり! もう、部屋の中、片付け終わっちゃいましたよ。それと、食べた後のカップラーメンくらい、自分で捨ててくださいねっ! 子どもじゃないんだから」
「そんなことしちゃ、カノンちゃんの仕事が減っちゃうじゃない。たっぷり部屋にいて欲しいからさぁ」
 掃除のご褒美にと、彼はワタシの頭を何度も撫でた。この人も大切にしなきゃならないワタシのファン。まったく無名の頃からワタシを支えてくれている貴重な人。
「それにしても、部屋の掃除までしてくれるなんて、ほんと、カノンちゃんって神対応だよね! アイドルのカガミだ。僕は一生カノンちゃんを応援するからね!」
「掃除だけじゃないですヨーだ」
 今日は彼のためにカレーを作っておいた。
「マジで? 超うれしいんだけど。なんか、いい香りがしてるなぁって思ってたよ」
 アイドルらしく、ペロッと舌を出してみた。愛おしさが高まったのか、彼はワタシを抱きしめてきた。大切にすべきファン。ワタシにとって欠かせない存在。頭の中で強く唱えながら、胸に伸ばされた手を受け入れた。

 ステージから見下ろす客席の中、二人のファンが突然、大声をあげた。
「なんでカノンちゃんが、お前みたいなヤツの家に行ってたんだよ! あの日は、俺の家に来てくれるって約束してたんだぞ!」
「知るかよバカ! カノンちゃんは僕の家で掃除してくれた後、膝枕までしてくたんだ。お前みたいなカス、カノンちゃんが相手にするわけねぇだろ!」
 胸ぐらを掴み合う二人。Tシャツの胸元が伸びて、今にもちぎれそう。ステージ上のメンバーたちは歌うのをやめ、心配そうに客席を見つめている。あまりの衝撃に、しゃがみ込む子もいる。ライブハウスの中には、声を失い、虚しく響き渡るカラオケの音。
「お前に膝枕だと? カノンちゃんが優しくしてくれるのは俺だけだって、そう言ってくれたんだ……」
 男性は激しく頭を掻きむしりはじめた。無造作に両手をバタつかせた後、急に顔を上げ、ワタシを睨みつけてきた。血走った目。恐怖で涙が溢れそうになった。
「テメェ! 嘘つきやがって! 売れるためなら、誰とでもベタベタするのか? テメェみたいなヤツは、人間のクズだ! 何が神対応だ! お前なんてアイドルでもなんでもない! ただの悪魔だ!」
 男性はポケットからナイフを取り出し、すごい勢いでこちらに駆け寄ってきた。警備のスタッフが力ずくで取り押さえた。

 目の前に差し出された手にそっと触れ、優しく包み込む。苦労を重ねてきた老婆の手は、クッキリとシワが刻み込まれている。
「カノン先生の占い通り、勇気を出して孫に電話してみたんです。孫もとても喜んでくれて。来週、会えることになったんです……」
 涙声の老婆。その手はワタシの手の中からスルリと抜け、涙をためた目を覆った。
「カノン先生は神様です。ほんとうに、心から感謝しております……」
 神様はいろんな形を持っていていいんだ。