大切なもの

「これ、お前の眼鏡か?」
 胸が締め付けられた。呼吸がどんどんと浅くなり、怒りがこみ上げた。
「え……?」
 キッチンに立つ妻は、こちらを見もせずに、小さな声だけ発した。
「お前、眼鏡なんてかけたことないだろ? 持ってるってことさえ、俺に言ったことないよな? どうなんだ?」
 怒りと不安が入り交じると、人は自分を安心させる回答を欲しがるということを、身をもって知った。その回答をすんなりと寄越さない妻の態度に、苛立ちは頂点に達した。
「こっちを見ろ!」
 目に留まったボックスティッシュを掴み、妻の足元に投げつけた。ボックスティッシュじゃ迫力に欠けたのか、妻はあまり怯えなかった。もっと威嚇できるものをと、今度は装飾品の入ったプラスチックのケースを同じように投げつけた。激しい音とともに、ケースが壊れ、収納されていた装飾品が飛び散った。
「何するの!」
 妻は両手で耳を塞ぎながら、悲鳴に近い声を上げた。妻が怯える姿をもっと望む自分に気づいた。
「ただの眼鏡じゃないの。別にオシャレするのに、あなたの許可なんて必要ないでしょ!そんなに目くじら立てて……」
 こいつは嘘をついている。
 不安というものは的中する。できれば誤解であって欲しい。できれば勘違いであって欲しい。そうすれば胸を占拠する不安はすべてキレイに消え去るのに。そんな淡い期待を抱いたとき、人はたいてい裏切られる。思い描いていたもの以上に、悲惨な事実として突きつけられる。あの日、予定されていた商談も、その後の接待も、アポイントが連続でキャンセルになるなんて、おかしいと思っていたんだ。あんな時間に家路に着くなんて、ここ数年じゃ珍しい。いつもと違う流れを感じた時点で、不安は的中の一途を辿っていたのかも知れない。
「俺、知ってるんだよ。お前がこの眼鏡をかけてS町の繁華街を、楽しそうに男と腕組んで歩いてたの。眼鏡をかけてたから、お前じゃないって、お前によく似た女性だって自分に言い聞かせてきたけど、この眼鏡が証拠だ……。あれはお前だったんだよ!」
 この場で妻を追い詰めたい。それなのに、なぜか自分が情けなく感じられた。惨めな自分を曝け出すことでしか、妻を追い詰められないこの状況に、歯がゆくなった。その情けなさを慰めるように、浅い呼吸のリズムは怒りを増幅させた。
「俺のこと、裏切りやがって!」
 鼻息が熱かった。漫画のように、耳から湯気が出ていたかも知れない。肺の大部分は圧迫され、もはや酸素は入って来ない。こんな怒りははじめてだ。俺よ、俺のことを守れ。目の前の女から、俺を守るんだ。
 気づけば、妻のほうににじり寄り、両手を首にかけようとしていた。
「あぁ、いい湯だったよ」
 背後から男の声がした。あまりの違和感に、睨むように後ろを振り返った。そこには、バスタオルを腰に巻いただけの見知らぬ男が立っていた。
「旦那さんよ。何年も何年も、彼女のことを放っておいて、今さら都合のいいこと言ってんじゃないよ」
「なに?」
 何が起こっているのか理解できない。ただ、あの日の繁華街で、妻の隣にいた男の残像と、目の前の男の顔がピッタリと一致した。
「俺はこの家に、もう何年も住んでるんだぜ。あんたが見向きもしないこの家になっ!」
 男が勝ち誇ったように吐き捨てた。住んでいる? 何年も? こいつが? 俺の家に? 俺の家? 俺の妻?
「どういうことだ!」
 何もかもが嘘なんだと種明かしして欲しかった。悪い夢から覚めたくて、再び妻のほうに体を向けた。そこには、眼鏡をかけた俺の知らない妻がいた。忘れかけていた妻への感情が、少しだけ蘇った気がした。妻は妖艶なくらい美しかった。
「知らないのは、あなただけなのよ」
 すべてが終わった。俺の知らない妻。その妻が諭すように終わりを告げた。膝の力が抜けて、床に突っ伏した。無様な格好だ。頭上からは、妻の声が降ってきた。
「眼鏡なんてかけなくても、大切なものが何かくらい見えるものよ」