名刺をお貸ししましょうか?

「よろしければ、私の名刺をお貸ししましょうか?」

四十億円の巨大プロジェクト。その運命がこれから決まるというのに、僕は何てことをしてしまったんだ。名刺を持ってくるのを忘れてしまうなんて。
「どちら様でしょうか……?」
「あなたと同じ部署の楠木と申します。楠木敬二です」
こんな奴、知らないぞ。見たこともない。でも、その手に持つ名刺の束を見れば、紛れもなくウチの社員に違いない。見慣れた球体のロゴが左上に印刷されている。
他人の名刺を借りるなんて、聞いたことがない。でも、こんな大事な局面で、名刺すら持ってこないような企画担当者が、コンペで勝てるわけがない。他の代理店に発注が流れてしまうに決まってる。
「実はあの時、別の担当者に名刺を借りてたんですよ……」なんてカミングアウトは、案件が決まってから何とでも言える。とにかく、この場を乗り切らなければ。藁をもすがる思いか。背に腹は変えられない。
「できれば、お言葉に甘えて、名刺をお借りしたいのですが、本当にいいんですか?」
「私のでよければ、使ってやってください」
 僕は楠木と名乗る男から、名刺の束を受け取った。

「どうもはじめまして。野間レジデンスの統括部長をしております、清水と申します」
 この人がプロジェクトのキーマンだな。今日は何がなんでもこの人の心に響くプレゼンをしてやるぞ。
 おっと。今日は借り物の名刺なんだった。自分の名を名乗ってしまうと、名刺の名前と食い違ってしまう。危うく口にしてしまうところだった。あぶないあぶない。
「本日はどうぞよろしくお願いいたします。M企画の楠木と申します」
名前の印象が残らないよう、クスノキの部分だけ少し声を落とした。
「M企画の楠木さん? あなたが楠木さんなんですね。我が社がいつも大変お世話になっております」
「はぁ……」
 統括部長は急に高揚した様子を見せると、後ろに並ぶ部下とおぼしき男たちに、少しの怒気を滲ませながら言った。
「楠木さんが担当してくださるんだったら、もうM企画にお願いすればいいじゃないか。コンペなんて不要だろう」
 統括部長の言葉通り、その日のコンペは、急遽中止となり、ウチの会社がプロジェクトを担当することに決まった。会社が設立されてから二十余年。過去最大規模の案件は、こうして受注されることとなった。
 野間レジデンスにこれほどの影響力を持つ楠木って男は、いったい何者なんだ?

「ねえねえ、カオリちゃん。ウチの部に、楠木なんて男、いたっけ?」
 野間レジデンスの仕事に追われ、楠木を探し出すこともすっかり忘れていた。そんなある日、業務が少し落ち着いたこともあってか、ふと、楠木のことを思い出した。
「クスノキサン? 知らないなぁ」
「知らないよね……」
 ほうら。楠木なんて、誰も知らないぞ。でも、そんなに社内で影の薄い奴が、あんな大企業に影響力を持っているなんて信じがたいけれど……。まぁ、いいか。
「カオリちゃん、今晩、ヒマ?」
「ヒマと言われれば、ヒマだけど」
「じゃあ、飲みに行こっか!」

 久しぶりにカオリちゃんと飲めるとあって、気分は舞い上がっていた。軽やかな足取りでビルのエントランスを抜ける。すると、ビルの前に怪しい男が一人、タバコを咥えて立っているのが目に飛び込んだ。
「アンタが楠木か? ちょっと事務所まで来てくれや……」
 のっそりと近寄ってきた男は、威嚇するように低い声で脅しをかけてきた。それだけじゃない。手にはナイフが握られている。
「ひ、人違いですよ。僕は楠木なんて名前じゃありません」
恐怖で声が裏返った。
「じゃあ、名刺見せてみろや!」
 あっ! しまった。鞄の中には楠木の名刺しか入ってない。これが見つかればマズイことになってしまう。こんな奴に狙われるなんて、楠木って、いったい何者なんだ?
 絶望に足を震わせていると、スーツ姿の見知らぬ男が静かに近づいてきて、こっそり僕に耳打ちした。
「よろしければ、私の名刺をお貸ししましょうか?」