時計の中心では

男は、こんもりと白髭を蓄えた老人に、そっと耳を近づけた。
「かれこれ七十年近くになるわなあ」
老人は記憶を逡巡させているのか、親指から順に指の節を揉み始めた。
「そうじゃ。驚きの事実を話してやろうか」
老人は丸い目をさらに丸くし、イタズラ好きの子供のような笑顔を浮かべた。老人の話に小さく頷きながら黙って耳を傾けていた男は、意外な表情の変化に思わず二度見した。
「ワシらの仕事は、全ての時計の中心となる大時計の地中で、ぜんまいを回し続けること。それはさっきも話したのう。でも、それだけじゃないんじゃ」
「それだけじゃないと言いますと?」
男は少し身を乗り出した。
「ワシらは、時間を操作したりもする」
そう言うと老人は、誇らしさと痛快さが混ざった表情を見せた。口角のあたりの白髭が、小刻みに震えている。
「例えばのう、あと一分あれば、大事な何かに間に合うのにとか、あと三分あれば、想いを寄せる人に会えるのにとか、ちょっとしたハッピーを逃しそうになっている人を見つけるとするじゃろ? そんなときは、ちょっとだけ時間を操作して、時をゆっくり流してあげるんじゃ」
「そんなことが可能なんですか?」
「簡単じゃよ。ぜんまいを、ゆっくりと回すだけ。それだけで、時間はゆっくりと経つ」
 男は取材用のノートに、老人の言葉を書き留めた。
「タバコをくわえながら、ゆっくりとぜんまいを回すんじゃ。時をゆっくり流してあげることで、いろんな人がほっこりと安心できたり、笑ったりできるもんなんじゃよ」
「その事実は知らなかったです……。では、遅らせた時間はどうやって戻すんですか?」
「勘の鈍い男やのう」
老人は男の頭を叩く仕草を見せた。
「遅らせた分、次はぜんまいを早く回すに決まっとるじゃろ。もちろん、そうなると、タバコなんか吸うてる余裕はないわな」
老人の笑い声が室内に響いた。
「そうやって、誰かを幸せにしてあげた、具体的なエピソードなんかはありますか?」
「具体的な……」
老人はそこで言葉を止めた。何かに迷うようにしばらく黙った後、はにかみながら話し始めた。
「もう大昔の話じゃが、ある一人の男がおってなあ。付き合っとった女が、飛行機に乗ってどっかへ行っちまうという切ない状況があったんじゃ。頑固な男は、それを止めもせず、家の中でだんまりを決め込んどったんじゃが、大切なものが何かに気づいたんやろうなあ、女を引き止めるために、空港まで全力疾走で向かったんじゃ」
熱を帯びて語りだした老人は、少し間を置き、勢いよく痰を切った。
「男がグズグズしておったせいで、案の定、飛行機の出発時間には間に合わんことになってしもうたんじゃ。そんなこと、あまりにもかわいそうじゃろ? せっかく自分の気持ちに気づいて、動き出したというんに」
「そこで……」
「そうじゃ。時間をゆっくり流してやれ!」
再び老人は、高笑いした。
「時間を遅らせてしまえば、飛行機だって飛べやしない。そうなれば、女が出発しちまうことだってなくなる。見事、その男は、女を引き止められたってことよ」
「その後、その男女は?」
「無事、結婚して、ハッピーな人生を送っておるよ」
小さく呟いた老人の頬が、少し赤らんだ。
「もしかして……」
男は遠慮がちに老人を指差した。
「やかましいわ! 詮索好きな人間は嫌いじゃ……」
今度は、誰が見ても分かるくらいしっかりと、その頬が赤くなった。
「本日は、奥さまも同席されるご予定でしたが、どうなさいましたか?」
「そうなんじゃ、来る来る言うておったのに、全然来よらん」
その時、部屋の扉が静かに開いた。
気品が漂う白髪の老婆が、ゆっくりと部屋の中に入ってきた。
老人は少し嬉しそうな顔を見せながらも、怒った調子で老婆に声をかけた。
「えらい遅かったやないか」
老婆は、丁寧な動作で男に会釈した後、老人へのお詫びの気持ちを、大らかな微笑みと、ゆったりとした瞬き一つで伝えた。
老人は手首に巻いた腕時計に目をやると、照れとも呆れとも取れる声色でぼやいた。
「時間は守れと、いつも言うとるじゃろ」