或る広告屋の仕事

「崖……。崖に行きたいんですけど」
 血色を失った表情の若者が尋ねてきた。
「そうねぇ。あそこにポストが見えるでしょ? あそこを右に曲がって真っ直ぐ行けば、崖が見えてくるけど……」
この道案内を何度してきただろうか。

「奥さんも災難ですねぇ。自殺のスポットがすぐ近くにあるなんて」
 突然、我が家のインターフォンが鳴った。玄関の先に現れたのは、大きな福耳を持った、中年の男性だった。
「そうなんです。家がこんなところにあるもんだから、彼ら彼女らの道案内をしなければならず……」
「お気の毒です」
 私の住む家から、角を曲がって真っ直ぐ進めば、死につながる。自殺のスポットとして知られる深い崖がある。
 死を望む人たちは、死ぬ間際に誰かと言葉を交わすことを願うのか、やり残したことがないことを確かめるように、私に声をかけて通って行く。ここまで来れば、彼ら彼女らの望む場所まで迷うはずなんてないはずなのに、誰しもが道を尋ねてくる。死を眼前に見据えた人たちにとって、私はどんな風に映っているのだろう。
「コピーライター?」
「小さな広告代理店で、広告に言葉を書いたりね。もしかしたら、ご存知のテレビCMもあるかも知れないなぁ」
「有名な方なんですね」
「とんでもない。ひっそりとやってますよ」
 中年の男性は小刻みに手を振りながら、照れた表情を浮かべた。
「そういえば、どういったご用件で?」
 男性の温和な雰囲気から、用件を尋ねることを忘れていた。死を望む人以外が、こんな辺鄙な場所を訪れるなんて珍しいから。
「自殺をストップさせようと思いまして」
「ストップ?」
「ええ。ここで自殺する人をなくそうと思いまして、やってきたんです」
 そう言うと、頬を柔らかくし、微笑んだ。
「そんなこと、できるんですか?」
「きっとね」
 コピーライターの男性は、軽く頭を下げると、ゆったりとした足取りで崖の方へと歩いて行った。

 あれから数ヶ月。あの男性が言った通り、崖から命を落とす人がいなくなった。
 自殺者が後を絶たず、それに悩んだ末、引越しを考えたほどだったのに、いったいどうやって自殺をなくしたというのだろうか。
 崖に対する積年の苦しみと、自殺がなくなった驚きの気持ちを整理するため、崖を見に行くことを決意した。
これまで数え切れないほど道案内してきたポストの角を曲がり、一本道に出た。崖につながる道は、迷いなく真っ直ぐ伸びていた。
 子供の頃から、この道には近づくなと厳しく言いつけられていたから、この景色を見た記憶はほとんどない。思春期になり、好奇心が芽生え始めた時にも、理由が理由だけに、不思議とこの道には興味を抱かなかった。
 この先で命を落とした人たちは、この道を歩きながら、どんなことを考えたのだろうか。もちろん未来など描かないだろう。未来に思いを馳せるほどの余裕があれば、自殺なんて選択はしないだろう。それならば、過去を思うのだろうか。変えられぬ過去を繰り返し再生しながら崖を目指し、前へ前へと歩いて行くのだろうか。
 放心状態のまま歩いていると、ようやく崖の淵に辿り着いた。
「ここか……」
 その声は吹き降ろす風に吸い込まれた。
 あまりにも深い崖下ばかりに目を取られていたために気づかなかったけれど、そこには一枚の看板が立てられていた。
『旧・自殺名所』
 筆で書かれた文字を眺めていると、後ろから聞き覚えのある声がした。一瞬、体が強張ったけれど、声の主を思い浮かべ安心した。
「自殺がなくなってほんとに良かった」
 体を声に振り向かせながら、ここ数ヶ月、胸に抱いていた思いが、咄嗟に口を突いた。
「どうやって?」
「簡単なことですよ。旧という言葉をこの場所につけてあげたんです。そうすれば、何もかもが過去になる。つまりは、流行遅れになるということです」
 コピーライターは得意げに微笑んだ。
「たとえ死を望む人でも、流行遅れは嫌うもんです。時代に取り残されて死ぬなんて、誰だって拒みたくなるでしょう」