夢の中

眠ってしまえば、生きる望みさえないこの現実から逃げることができる。生きていても楽しいことなんて、何一つない。代わり映えすることもない。何もないんだ。
枕元の携帯電話が鳴った。
休みだというのに、得意先からだ。背面の液晶に得意先の担当者の名前が表示されている。
「はぁ……」
わざとため息を声に出して、携帯電話に吐きかけた。
湿気で生地がくたびれた枕を掴んで、小刻みに震える携帯電話を覆うように被せた。
寝よう。早く寝よう。何もかも忘れよう。

きっと眠りに落ちたんだろう。
僕の好きな空間。身体がフワフワとして、望んだことが何でもできる。夢の中。
例えば空に手が届くほど高く飛んでみようと思う。地面を軽く蹴るだけで、もう景色が見下ろせるくらい、身体は高くにある。
「やっぱり夢の中はいいなぁ」
宙に浮かびながら、呆けた。
どこかよそへ行こうと、空中を蹴伸びした瞬間、グワッと肩を掴まれた。
「そんなに夢の中が好きなんだったら、もっともっと夢の中を満喫できる方法を教えてあげましょうか?」
染み一つない真っ白なハットとスーツに身を包んだ猫、いや、猫みたいな顔をした紳士が、僕の横に浮かんでいる。
「誰……?」
僕の夢の中に、自分が意図しない人間が登場したのが初めてだったので不安になった。
「名乗りません。名乗っても意味がありませんから。私はただ、あなたの夢をもっといい夢にしてあげようと考えている、ボランティアのようなもんです」
「はぁ……」
「人間って、どうしてこんなにもがんじがらめになって生きているんでしょうね。自分たちの手で作ったルールで自らの首を絞めて。そんな世界の中で、自ら命を絶つ人間だっている。望んで生まれたわけじゃない人間たちが、死を望んで消えて行く。哀れみたくなる事実です。だから、夢の中という素晴らしい世界があるんですね。どうです、もっとこの夢の中の素晴らしさを味わってみたくありませんか?」
少しかすれた声で語る男の声に、不思議な居心地の良さを感じた。
「そんな素晴らしい世界があるなら……」
男は小さく頷くと、「簡単なことです。あなたも例に漏れず、眠った後に訪れる夢の中の世界がお好きでしょう? これは誰も知る由もなかった方法なんです」
男は息を深く吸い込むと、そのフレーズを、たっぷりとした間を取りながら話した。
「夢の中でもまた、眠りに落ちることで、次の夢の世界へと身を沈めるのです。そして、次の夢の中でも、さらに次の夢の中でも……」
男はそれだけを言い残すと、僕の目の前から消えてしまった。

男に教えてもらった方法で僕は、どんどんと素晴らしい世界を味わっている。
もうどれくらい深い夢の中に来ただろうか。眠るたびに快感に包まれる。足が痺れ始め、下半身から脳に向かって快感が突き抜けるような感じ。そして、どんどんと身軽になっていくような感覚。それらが濃くなって僕を包んでいく。
「あっ、そう言えば……」
あの映画、放映っていつまでだったろうか。映画館で観るのをずっと楽しみにしていた映画。放映が終わられては困る。
映画のことが気になった僕は、それを調べるために現実に戻ろう考えた。何度も目覚めては、前の夢の中へと戻って行った。
ふと、嫌な予感がした。
どれだけ目覚めてみても、現実の世界がやって来ない。覚めても覚めても、夢の中。
「あの男を探さなきゃ……」
あの男から現実に戻る方法を聞かなきゃ。あの男に出会ったのは、どの夢の中だった?

ようやく目覚めた。見慣れた部屋のはずなのに、どこか懐かしさを感じる。
肩や背中が重く、瞼もとても重い。痒みを感じた目をゴシゴシと擦ってみた。
「ん?」
視界に入った僕の指。信じられないくらいに老け込み、皺だらけになっている。
その時、背後から男の声が聞こえた。
「どうやら、二度と覚めない深い眠りにつくお年に、なられたようですね」