たったひとつの記憶

 「たったひとつだけ。失った記憶を取り戻せそうだけど、どうする?」

 真っ白な壁に覆われた息苦しい診察室。
 厳しい目つきの女医が僕に問いかける。
 「彼女の若年性認知症の症状は、いつ頃から出始めたの?」
 「確か、半年前です……」
 「脳付けハードディスクを使用したのは?」
 「三日前です……」
 それを聞くと女医は、短い溜息をついた。

 病には抗えない。命を持つものの全ては、それの訪れを黙って受け入れるしかない。
 ただ、人間だけは違った。
 さまざまな病気に対して、治癒が難しく根治の見込みがないと判断すると、それを科学の力でねじ伏せようとしてきた。
 認知症の場合もそうだ。
 認知症が起こるメカニズムの解明と、発症した認知症の治療が困難だと判断した結果、あろうことか人間は、自分の記憶を脳付けハードディスクと呼ばれる外部記憶媒体に記録しておき、いざ認知症が発症し、脳内の記憶が壊されていくと、その脳付けハードディスクを脳につなぎ込み、ストックしておいた記憶を強引に復帰させる仕組みを導入した。

 「じゃあ、ハードディスクをつなぎ込んだ瞬間から異変が起こったのね?」
 「はい……」
 「さっき彼女がつなぎ込んだハードディスクの完全スキャンを行ったわ」
 人間の場合ならここで、患部を写し出したレントゲン写真を見せられ、症状の説明という場面に移って行くのだろう。
 その行為の代わりに、女医はタブレット端末を僕にも見えるような角度で操作し始めた。
 「こちらが正常に稼動しているハードディスクの数値形状。そしてこちらが、彼女が使用したハードディスクの数値形状ね。ご覧の通り、奇妙な乱数で埋め尽くされているの」
 専門知識のカケラもない僕には、どちらの映像も莫大な数字の羅列にしか見えなかった。
 「何者かにクラッキングされたのよ」
 「クラッキング……?」
 「悪意を持った誰か、もしくは、悪意さえ持たない悪趣味な人間が、イタズラ目的でパソコンやサーバー、ハードディスクに侵入し、データを破壊するという許しがたい行為。彼女の脳付けハードディスクは、その標的になってしまったのよ」
 「そんなことってあるんですか!」
 僕の彼女は、パソコンじゃない。僕の彼女は、サーバーじゃない。僕の彼女が、クラッキングの対象になるなんて、バカげている。
 「そんなこと、あるわけない!」
 認知症になったとしても、彼女の面影は残ったままだ。病に侵される前の彼女に戻る瞬間を、望む気持ちを捨てないで済む。
 でも、今の彼女にはもう……。
 「人間とは思えない言葉を話して、まるで機械仕掛けの人形のように……」
 拳に思いっきり力を込めた。
 「人間は自然のなかで生きる生き物。機械なんかとは、仲良くできるわけない」
 女医はタブレットの電源を切りながら、僕を諭すように話した。
 「彼女の脳を空白にする手術を行います。クラックされた脳内のデータ、いえ、記憶を全て消し去り、空っぽにします」
 空白? 消し去る? 空っぽ? 全ての単語が、僕から彼女を遠ざけて行く気がした。
 うなだれる僕に、思いがけない女医の言葉が降ってきた。
 「たったひとつだけ。失った記憶を取り戻せそうだけど、どうする?」
 溺れる僕は血走った目で藁を掴んだ。
 「僕の記憶を。僕の記憶だけは、彼女のなかに残してください!」

 手術中を示すランプが消えた。
 ゆっくりと開かれた手術室の扉から、ストレッチャーに乗せられた彼女の姿が見えた。
 天井や周りの壁、付き添う看護婦たちの姿を、無邪気な子どもみたいに眺めている。
 記憶が空っぽになった人間にとって、この世界はどんな風に映るのだろうか。
 ストレッチャーが僕の前をゆっくり通過する。その時、彼女の目が僕を捉えた。
 彼女が笑った。
 記憶の遥か奥、深い底から安心感が這い出たのだろう。笑顔が彼女の口元を緩めた。
 僕の記憶だけを持った彼女と共に、これから先、どこまでも手を取り合って生きて行こうと、心に誓った。