走馬燈鉄道

おぼろげな記憶が、視界を流れる景色とともに鮮明になっていく。
覚えていたつもりの記憶も、実は曖昧で、本当の過去はもっと繊細さを帯びていることに気づかされる。
「走馬燈鉄道にご乗車いただきまして、誠にありがとうございます。降車をご希望のお客様は、壁に据付の朱色のボタンを押していただきますよう、お願いいたします」
まばらな乗客に目をやりながら車掌が歩く。
こうして微かな揺れを感じながら車窓の外に映る記憶を眺めて何日が経つだろうか。懐かしさがこんなにも新鮮に感じるなんて。

「君のためを思うからこそ、もう終わりにしようと思うんだ」
僕の暮らすワンルームマンションの散らかった部屋。騒音しか発さないテレビの電源を切ると、部屋には沈黙だけが残った。
「私はただ、あなたと一緒に居ることができれば、それだけでいいの。それ以上は何も望まないから……」
「僕なんかと一緒に居ると、君が幸せになれないよ」
「そんなことない! 幸せなんかいらないから、そばに居させて!」
ここ数日間、彼女はずっと泣き続けていたのだろう。泣きはらしたその目が、彼女の心の痛みを物語っていた。
しがみつく彼女の腕を振り払いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「これまで尽くしてくれたことは感謝しているよ。だけどもう、君とは一緒に居られないんだ。わかってくれ」
彼女の涙は、クッションの上に垂れ続け、生地の色をじんわりと濃くした。

走馬燈鉄道のことを聞いたのは、数ヶ月前。取引先との商談中に、偶然耳にした。
『希望の駅(過去)までお運びします』
大切なものほど、失ってからその大事さに気づく。自分に後悔が襲ってくるまでは、聞きなれたそんな言葉も、他人事でしかなかった。どうしてこうも人間って愚かなんだろう。
やっぱり彼女と共に生きるべきだったんだ。

出世が決まり、薄汚れた人間関係から得る利益に目が眩み、自分らしさをすっかり失っていたあの頃の自分が、車窓の外で嫌味に笑っている。僕の戻るべき過去、やり直すべき過去、降りなければならない駅はもうすぐだ。
窓の外に意識を集中させていると、ふいに優しい振動を感じた。
「おとなり、よろしいですかな?」
隣に目をやると、裕福そうな身なりの老人が、腰を下ろしていた。
もうすぐ降りるタイミングなのにやっかいだなと思いながらも「どうぞ」と頭を下げた。
「過去に置き忘れた大切な物でも?」
突然の質問に、車窓に移そうとしていた視線を再び老人に戻した。
「ええ……まぁ」
「恋人かね?」
矢継ぎ早に飛んでくるぶしつけな質問に少し苛立ち、愛想のなさを返事の声に滲ませた。
「人にはそれぞれ、個人的な事情というものがたくさんあるからのう」
相手をしていてはキリがないと思い、その言葉を背中で聞くことにした。
「おせっかいかもしれんが……」
老人の指が、苛立つ僕の肩を軽く叩いた。
「なんですか?」
「未来鉄道のことをご存知かい?」
「未来鉄道?」
「この走馬燈鉄道のように、時間を旅できる鉄道でなぁ。その名の通り、未来に向かって走っておる列車じゃ」
「はぁ。それが何か?」
「お前さんが今から会いに行こうとしておる恋人さん。あの日、お前さんが走馬燈列車に乗り込んだ翌日に、ご主人からの家庭内暴力に耐えかねて、自ら命を絶ってしまうんじゃ」
「え?」
「この先の駅で、ちょうど未来鉄道と連絡しておるから、念のため、伝えておこうと思ってのう」
僕と別れてから、彼女は結婚していたのか。そして、家庭内暴力を受けていた。男に尽くすタイプの性格だから、ありえなくもない。
「どうしてそのことを?」
「晩年にもなると、列車の旅くらいしか、やることがなくてなあ」
彼女の苦悶する顔を思い浮かべると、反射的に朱色のボタンを押し、立ち上がっていた。
「過去など変えても何の意味もない。人が変えられるのは、未来しかないんじゃから」