伝統ある競技

チャンスは今日しかない。
滑らせるように歩を進める。音をたてないために。腰を屈めて歩く。窓の外から見られないように。
見つかったらもう、ここでは生きていけない。
僕たちは閉鎖されたコミュニティの中で生きている。いつでも他人の評価を気にしながら、時には誰かを蹴落とし踏み台にして、自分の居場所にすがるようにして生きている。
僕の企みが表沙汰になれば、コミュニティから阻害され、不遇の扱いを受けることになる。それでも僕は、決めたんだ。
――華川マキのブルマを履いてやる――

ガランとした校舎は、生命の躍動を奪われた大きな塊のように感じる。
今日は午後から、「町の仕事に触れる」と称された課外授業が行われていて、生徒たちは全員、学校を離れ、方々へと散っている。
担任の先生たちも引率で出払っているため、担任を受け持っていない先生たちが職員室に待機していることを除けば、この学校には今、誰もいない。
――だから、今日しかないんだ――

四時間目の体育の授業が終わり、脱ぎたての体操服が、女子たちの席の横、それぞれのカバンの中で眠っている。
放課後でもないのに人がいない教室からは、新鮮な印象を受けた。教壇の上にのぼり、見慣れた黒板や日直表、寡黙に佇む机や椅子の様子を、ぼんやりと眺めた。
「おーい!誰かいるのか?」
マズい。階段のほうから誰かの声が響いた。バレたのか? 誰にも見つからずに忍び込んだはずなのに。なんでだ?
僕は教壇を降り、無人の教室の中を走った。
――まだ間に合う――
階段から最も遠いこの教室。あの声が迫ってくるまでには、まだ時間がある。
僕はひとつのカバンを目線の先に捕らえると、勢いよく手を突っ込み、中からまだ温もりの残る体操服を取り出した。
制服のズボンを脱ぎ捨てると、僕はブルマを両手で握りしめ「さぁ、右足から突っ込んでやるぞ」と、念じるように心の中で呟いた。
――あぁ、今、僕の右足が、華川マキのブルマを通っている。彼女と同化していくようなこの快感の凄まじさよ。もう誰も僕を止めることはできない。このまま僕は左足をもブルマに通し、彼女と一体になるんだ――
でも、悠長にこの快感に浸っている余裕はない。野太い声がすぐ近くで響く。
――逃げなきゃ――
幸いにも、この教室は二階。窓から飛び降りて、そのまま校庭を走り抜ければ、逃走は可能。そんなことは計算済みだった。
脱ぎ捨てたズボンを鷲掴みにし、僕は窓の方へと走った。慣れた手つきで鍵を外し、躊躇うことなく窓を開いた。
その時、背後で教室のドアが開く音がした。それと同時に僕は、開かれた窓から、その身を解放した。自由に向かって。
――華川マキのブルマを履いて、僕、飛んでるよ、飛んでるよ――

――痛ぇ――
想像よりもはるかに強い衝撃が、身体中を稲妻のように駆け巡った。
たかが二階から飛び降りただけでも、こんなに衝撃を受けるものなのか。うまく着地できてなかったら、足首を骨折してたよ……。
「十点!」
――え?――
「私も十点」
慌てて声の方に視線を移すと、そこには、校長をはじめ、数人の先生がパイプ式の簡易机に仰々しく並んでいた。
――これはいったいどういうことだ? 十点って、いったいどういうことなんだ?――
「九点」
「十点」
「残念ながら、私は、一点ですね」
机の端に座る体育教師の小門がそう言った。
「彼のブルマをよく見てくださいよ、皆さん。慌ててブルマを探したもんだから、別の女子のやつを履いてるでしょう?」
ブルマの腰のリブに目をやると、白いネーム刺繍が見えた。
「そうです。柔道部の剛田さんのやつを、彼は履いてるんですよ」
「残念ですなぁ。久しぶりに良い演技を見られると期待しておったのに」
ため息混じりにボヤくと、校長は興味を失ったように背を向け歩き始めた。
「ワシらの頃は、もっと颯爽と高く飛んどったがなぁ。我が校の栄光も、遠い昔か……」