私の好きなもの

「また潰れちゃったんだよねぇ……。信じられる?」
オフィス街の一角。閑静な佇まいのイタリアンレストランでランチを食べた後、テーブルに置かれたコーヒーを挟んで、同僚の美香に打ち明ける。
「また?」
「まただよ。お気に入りの雑貨屋だったんだよ。アンティークな雑貨が多くて好きだったのに。家からも近かったし……」
「ちょっと前もそんなこと言ってたよね?」
「ちょっと前どころか、通ってたケーキ屋さんも、駅前の美容院も、甘さ控えめでハマッてたM製菓のチョコレートもだよ。ほんと、嫌になっちゃうよ。私が好きになったもの、全部なくなっちゃうんだもん……」
「たまたまなんじゃないの?」
「たまたまなのかなぁ……?」
「ここは潰さないでよ?他にイタリアンのお店、近くにないんだから?」
私の話を軽く笑い飛ばす美香の笑顔を見ながら、少し俯き、コーヒーカップの淵を指でなぞった。

「ぜひ、我が社にご協力いただきたくて」
モデルを思わせる容姿。そこら辺にいるサラリーマンとは、全く違ったオーラを身にまとった男性。この人だから許せるのだろう、男性にしては色気の多い香水の香り。
ある日、美香から一本の電話がかかってきて、この男性と会うことになった。私が好きになった店や商品が、世の中からどんどんと姿を消すことを美香から聞いたこの男性が、私と直接会って話しがしたいと願い出たそうだ。
ありふれた中小企業の営業戦略部の人だって言うから、気軽な気持ちで来たのに、まさかのイケメン。先に言ってくれれば、もっとメイクも完璧にしたのにと、美香をちょっとだけ恨んだ。
「美香さんにご協力いただきたいことは、とても簡単なことなんです」
池上と名乗るその男性は、私に一枚の書類を見せてきた。
「このリストに掲載されている店に通ってもらって、それでその店を、好きになってもらうだけ。ただそれだけ」
語尾を弾ませて爽やかに微笑む池上さんを、しばし見つめながら「好きに?」と、ひとり言のように呟いてみた。
「そう。好きになってもらいたい」
「でも、私が好きになった店とかって、いつも潰れちゃうんですよ。自分はどれだけツイてないんだろうって……。せっかく気に入ったものでも、全部なくなっちゃうから」
「それでいいんです」
「え?」
「お願いできる?」
こんな端正なルックスで頼まれごとされたら、私みたいな平凡な女は、こう言うしかないよ。
「はい……」

S女子大の裏手にあるエステサロンが倒産。
謎の業績悪化や、近隣への大型店舗進出など、さまざまな理由で、私が通う店は、ことごとく潰れていった。
池上さんがやろうとしていることは、間違いなく悪事だってことは分かっている。
きっと池上さんは、競合する企業を押さえつけたいと企むクライアントからの依頼を受け、それを粛々と実行している。
企業だって、競合店と客の奪い合いをしているよりも、潰してしまうほうが手っ取り早いってことくらい、誰にだってわかる。でも、普通はそんなことできない。
そこで池上さんが目をつけたのが、私。
悪事の片棒を担いでることもわかってる。単に利用されているだけだってこともわかってる。でも……。
「ありがとう。ほんとに助かるよ、いつも」
リストに掲載されている店が潰れるたびに、丁寧に電話をくれる池上さん。
「来月にでも、ぜひ食事に誘うよ」
電話の去り際、そんなことを言ってくれる池上さんに、私の胸は躍る。
頭の中に、池上さんの顔を思い浮かべてみると、意識の底から彼のあの香水の匂いがほのかに昇り、ゆっくりと体内を巡り始めた。

沈痛な面持ちの人たちが並ぶ、黒い行列。
私は顔を少し伏せながら、その最後尾に並ぶ。
静けさが耳を刺す空間の中、できるだけ誰とも目を合わさないよう、前へ前へと進んだ。
私の番が来た。
立ち止まり、そっと顔を上げると、そこには池上さんの遺影。
「私が好きになっちゃったからだ……」
誰かのすすり泣く声が遠くから聞こえた。