放課後のリコーダー

窓の外から姿を見られないように、僕は腰を深く落とし、清美ちゃんの席を目指した。
あった!このバッグの中だ。
ファッション誌の付録として入手することができる人気のブランドのロゴがプリントされたバッグ。この中に、清美ちゃんは、リコーダーを入れているのを、僕は知っている。
男子なら誰もが一度は夢見るであろう、放課後の教室に忍び込んで、好きな女子のリコーダーを吹くこと。ついに今、僕はその夢を叶えようと、右手に清美ちゃんのリコーダーを握り締めている。
「えっ?」
思わず僕は小さな声を漏らした。慌てた拍子に、握り締めていたリコーダーを床に落としてしまった。とりあえず屈んで隠れなきゃ。
いきなり入り口のドアが開き、誰かが入ってきたのだ。
「おい!そこにいるのはわかっているんだ。出てきて話をしようじゃないか!」
聞いたことのない声だ。先生の声じゃない。
「君が出てこないなら、僕のほうからそっちに行くよ」
怖くなった僕は、咄嗟に立ち上がり「すみません……」と、強く目を瞑りながら言った。
「僕は時空を旅している旅人だ。この世界に迷い込んだときに、ある大切なものを失ってしまったんだ。それをずっと探している」
これはいったい、どういう展開なんだ? 目の前には、ロールプレイングゲームの主人公を思わせる、オンボロの布を身にまとった若者が立っているぞ。どういうことかさっぱりわらかない。ここは、放課後の校舎だよな?
「この建物に迷い込んでから、誰一人として、人間を見かけなかった。そんな時、君がこの部屋に入っていくのを目撃したから、後を追ってきたんだ。ひどく慎重に歩いていたけど、君は誰かに追われているのか?」
追われているどころか、むしろ、夢を追ってこの部屋に来たんだけども……。
「い、いや、別に追われてなんかないよ。それはそうと、大切なものを失ったって言ってたよね? それって、何なの?」
事態も理解できないまま、とりあえず目の前の旅人と会話をしてみることにした。
「天使さ」
旅人は微笑みながら肩を落とした。
「僕はその天使と一緒じゃないと、時空の旅を続けることができないんだ」
天使に思いを馳せるように、旅人は教室の中をゆっくりと歩き回った。
「おい!見ろ!」
オレンジ色に染まる教室の静けさを突き破るように、旅人の鋭い声が響いた。
「こんなところに、天使使いの縦笛が落ちているぞ!」
旅人は床にしゃがみ込み、瞬時に立ち上がると、握り締めた右腕を高く突き上げた。
そこには、清美ちゃんのリコーダーが握られていた。
天使使いの縦笛? 何を言ってるんだ? ただの学校用のリコーダーだぞ……。
「なぁ? 君は、天使使いの縦笛を吹くことができるかい?」
「は?」
「この天使使いの縦笛を吹くことができるかって聞いているんだ!」
目の前の展開に追いつけていない僕の、煮え切らない態度に業を煮やしたのか、旅人は苛立った声で叫んだ。
「まぁ、吹けるよ」気圧されたまま答えた。
「何? 君は縦笛吹きの詩人なのかい?」
旅人は嬉々とした声を上げた。
なんじゃそれ? 現実との乖離に思わず吹き出しそうになりながらも、旅人が差し出した縦笛、いや、清美ちゃんのリコーダーを黙って受け取った。
「その縦笛を吹いてくれれば、ここに天使を呼ぶことができる!そうすれば、僕は旅を続けることができるんだ!さぁ、吹いて!」
僕は縦笛を口に近づけた。
これは天使使いの縦笛なんかじゃない。清美ちゃんのリコーダーだ。僕の念願であり、夢のリコーダー。旅人なんか関係ない。時空の旅も関係ない。これは僕の夢なんだ。
僕はリコーダーを思いっきり口に咥え、たっぷり吸い込んだ息を、全力で吹き出した。
耳をつんざくような笛の音が、教室に響いた。
笛の音が終わると同時に、入り口のドアが勢いよく開いた。まさか、ほんとに天使が?
ドアの方に目をやると、そこには、天使が、いや、清美ちゃんが立っていた。
そうか、清美ちゃんは、僕の天使だ。
自分のリコーダーを口に咥えた男子生徒の姿に怯えた清美ちゃんは、耳をつんざくような悲鳴を上げた。
その悲鳴は、誰もいない校舎に響き渡った。