誰かのためになること

「俺、例のやつ来ちゃったみたいなんだ。足元から薄くなってきてる」
私に微笑みかけるようにして、そう呟いた。
彼はフローリングの上に置かれた丸テーブルにちょこんと向かいながら、自主制作版のCDジャケットを手描きしている。
嘘だ……。なんで、彼が……?

テレビのニュースでは、国家のバッジを付けた政治家が囲み取材を受けていた。
「今回の削除対象者は、約九百名となっています。詳細は国家のホームページに……」
世の中のためになっていない人間は、削除対象として、この世から抹消されることが法律で定められてから数年が経つ。
人口の増加に伴って、日本はいまの国の規模を背負っていけなくなったのがその理由。
人や国のために役に立っていないと判断した人間は、容赦なく、消していくという怖ろしい法律だ。
約九百名って……。人の命を何だと思ってるんだ。人の数を概算で話さないで欲しい。抹消される人間の虚しさなんか、微塵も分かろうとしていないんだろう。
彼が削除対象になってしまったのは、どうやら間違いないようだ。日に日に彼の姿が、ぼんやりと薄くなっている。
「悔しくないの?」
普段通りにアルバイトから帰宅した彼にもどかしさを感じて、言葉を突きつけた。
「仕方ないよ。この歳になっても、バカみたいに音楽で売れることを夢見てて……。くだらない歌なんて歌ってても、誰のためにもなってないし」
「そんなことないよ!私は大好きだよ!」
「ありがとう。そんな風に僕の曲を好きって言ってくれるの、マナだけだよ」
力なく笑う彼の姿を見ていると、やるせなさと歯がゆさが込み上げてきた。

「ねぇ!路上に歌いに行こうよ!」
彼のギターケースを担ぎながら、叫んだ。
「えっ?」
私がそう言ったのには理由がある。
「みんなの心に歌が響けば、誰かのためになってるって国も判断してくれる!だから、歌って欲しいんだ!今からでも遅くないんだよ……。新曲、歌いに行こう!」
どんどん薄くなって行く自分の身体を彼は諦め顔で見つめている。そんな彼のお尻を何度も叩きながら、雨上がりの街へと繰り出した。
「ほら、たくさん人が通ってるよ!ここにしようよ!ここで歌ってよ!」
駅前のロータリの一番いい場所に腰掛けた。
風が夜空に広がる雲を足早に追いやって、みるみるうちに星が顔を覗かせた。
「こんな夜は奇跡が起こるかも知れないね」
無邪気にはしゃぎたくなった。だって、彼の歌が、人の心に響かないわけがないもの。
新曲を中心に、過去の曲も何曲も歌った。
彼の隣に座り、ゆっくり身体を揺らしながら目を閉じ、その声に聴き入っていた。
「やっぱり、声が好きだなぁ……」
恋人だから贔屓しているわけじゃなくて、ほんとにいい声をしてると思うから。
自分に酔っているわけでもなくて、他人に何かを押し付けようとしているわけでもない。控えめなメッセージが詰った彼の曲が、私は、大好きだ。
「誰も足を止めないね……」彼がうな垂れる。
「大丈夫だって!」
励ましてはみたものの、彼の言う通り、誰一人、私たちの前で足を止める人はいない。彼はどんな気持ちで歌っているのだろう。
夢を持っているということだけで、人が生きる理由にはならないの?誰かのためになるって、そんなに重要なことなの?
私の心も折れそうになった頃、会社帰り風の女性が、私たちの前で立ち止まった。
良かった……。溢れそうになる涙を堪える。
今日のライブは招待制。一名様限定ライブ。見事、あなたが当選しました。おめでとう。
そう胸の中で呟いた。
今日一番の気持ちがこもった新曲が、人通りも少なくなった夜の街に響き渡った。
曲を聴き終えると、女性はしゃがみ込み、ギターケースの上に詰まれた新曲のCDを、愛おしそうに手に取った。その時、薄れ始めていた彼の身体の輪郭が濃くなり、身体に生気が戻った。女性の心を打った証拠だ。
あまりの喜びと安心で、胸が熱くなった。
「彼の新曲、気に入っていただけました?」
私が歌ったわけでもないのに、興奮のあまり、でしゃばって、女性に尋ねてみた。
すると女性はモジモジしながら答えた。
「曲じゃなくて……。ジャケットの絵が心に響いたんです」