影に飲み込まれる世界

娘はそっと花を摘みあげた。
「キレイ……」
もうどれくらい登っただろうか。想像よりもはるかに勾配がきついこの山は、登る者の体力をどんどんと奪って行く。でも、登らなきゃ。使命感が娘の足を、上へ上へと進ませた。
「はて?こんなにも美しい女性がどこへ?」
山の中腹ですれ違った老人が声をかけてきた。
「山頂の木に人知れず生るという幻の木の実を求めて。母が不治の病なんです。それを治せるのは、その木の実しかないと言い伝えられているもので」
凛とした瞳で答え、娘は再び山頂を目指した。
幾日かが過ぎ、娘はついに頂の姿を捕らえた。
すっかり日が落ち、真っ暗になった中でも、木の実はいとも簡単に見つかった。頂までの道のりの苦難を思うと、それがたやすく見つかることが、少し滑稽にも思えたけれど、母の病を治すことができるそれを、丁寧に摘み、袋の中に納めた。
「これでママの病気が……」
感慨に耽りながら、何気なく山の向こう側の景色を望んだ娘は、その光景に呆然とした。
どこまでも果てしなく続く街の灯り。見る者をうっとりさせるほどの夜景。文明の力強さ。隆盛を極めた輝き。そこには、目を疑うほどに発展した都市が広がっていた。
「山の向こうには、こんなにも栄えた街があったなんて……。知らなかった」
その事実をあっさりと受け流すには、娘の暮らす村は、あまりにも貧し過ぎた。
夜は暗いものと思っていた。輝きは惜しまれるもの、文明などとは無縁であり、村にあるものこそが世界の全てとばかり思っていた。
それがどうだろうか。今、眼下には、胸に強く根付いた常識を引き裂くほど未開の事実が広がっている。
灯りに寄る羽虫のように、娘の足は、輝きに吸い寄せられ、動き出した。
木の実の入った袋を置き去りにしたまま。

「この医薬品さえあれば、ママの病気はすっかり治るわ!」
あの日、灯りに焦がれ下山した娘は、薄汚れた身なりのまま、街へと入って行った。
その美貌から、男たちは娘を放っておかず、誰しもが宝飾品のように扱った。
その隆盛を思いのままに謳歌し、新たな運命を纏いながら、流れた数年の月日。
乗り物は高速で移動し、路面や空のあちこちを行き交う。満腹で拒みたくなるほどに豪華な食べ物。身に着けるものは娘の美しさをさらに引き立てる優美な衣装の数々。
さまざまなものが生産されては破棄された。
幾度の実験と犠牲を繰り返し、やがて人は、医療の力によって病すらも怖れなくなった。
母の病などは、むしろたやすく完治できる類だということがわかり、娘は母にその薬を届けるために、再び山を越えることを決意した。
「大丈夫よ!私が登ってきた山だから」
ベッドの中でまどろみながら、髪の毛を撫でてくる恋人。安心させるように、細く白い指を滑らせながら、優しく頬に触れる。
「じゃあ、行ってくるね!」
名残惜しそうな表情で、玄関まで見送りに来た恋人の額にそっとキスをした。

「母はどこ?村はどこ?私の生まれ育った、村はどこ?」
頂に辿り着いた娘が見たものは、またしても目を疑う光景だった。
「村が、消えてる……」
登る方角を間違えたわけがない。この山の頂は、ここしかない。あの日、木の実を摘んだ場所。確かにそこに立っている。
眼下に広がる景色は、どこまでも果てしなく沈み行く、鬱蒼とした谷だった。
その先に何があるのかさえ、想像もつかないほど深い谷。
「久しぶりじゃの」
しゃがれた声に、後ろを振り返る。
「おじいさん……」
あの日の老人が物憂げな目をして立っている。
「光と影のようなものじゃ。隆盛の影には翳りが訪れる。進化とは、何かを踏み台にして、多くの犠牲を生み続ける。発展の過渡におる者たちは、何の意識もせずに、足元を汚して行くもんじゃ。目を背けるようにして」
聞きながら娘は、谷の底を再び見つめた。
「あの谷のどこかには、時間を元に戻せる花が咲いとるようじゃ」
「え?」
「人が過ちを犯す前に立ち帰りたいかの?」
娘は強く頷くと、谷に向かって降りはじめた。
「美しいお譲ちゃんよ。そんな立派な靴じゃ、怪我をするぞ」
娘は靴を脱ぐと、頂の向こう側に投げ捨てた。