覚めない夢

「僕は、飛べる……」
自分に言い聞かせるように、そう小さく呟き、コンクリートの角を力強く蹴った。
見慣れた街並みが他人事のように小さく見え、経験したことのない解放感が身体を包む。
鳥になった気分だ。僕は今、空にいる。
空を飛ぶ快感に酔いしれようとした瞬間だった。あれほど小さく見えていた街の景色が、どんどんとこちらに迫って来る。
容赦ない重力に吸い込まれながら、地面へと落下して行く恐怖。僕は叫び声を上げた。
もう、何もなす術なしだ。数秒前まで、だだっ広い空の中にいたのに、もうこんなにアスファルトが近い。後は木っ端微塵になるほどに、身体が打ちつけられて終わりだ。
僕は死を覚悟した。

ドンッ!
鈍い衝撃とともに目が覚めた。
「夢……?」
何度も目を擦る。僕は眠っていたようだ。
それにしても、ここはどこだろうか?
ビルの地下駐車場のようだけれど、どうしてこんな場所にいるんだろう。
かなり広い駐車場の中、人の気配を求め、辺りを見回していると、うねるような音を背後に感じ、振り返った。はるか後方から猛スピードの車がこちらに向かって走って来るのが見えた。
「まさか……?」
予想は的中した。
その車の標的は、僕だ。
猛々しく暴れ狂う怪物のように、車は猛スピードでこちらに迫って来た。
このまま、身動きもできないまま、僕は轢かれてしまう。再び死を覚悟した僕は、瞼を強く閉じ、身体を硬直させた。

ドンッ!
鈍い衝撃とともに、閉じていた瞼を開くと、そこはまたしても知らない景色の中。どうやらまた、夢だったみたいだ。
夢の中で夢から覚めるという不思議な感覚を、頭の中で整理する暇もなく、またしても緊急事態が、目の前にはあった。
「残念ながら、お前にはこの場で消えてもらう」
黒いスーツの男。僕を殺害するための言葉。そして、構えられたピストル。その銃口の先には、僕が立っている。
条件反射的に僕は逃げ出した。
ここはどこかのオフィスビルの中だろうか?
気が動転していたこともあり、階下に降りればいいものの、なぜか階段を上へ上へと昇ってしまっていた。銃口から逃げなければ。
屋上に出た僕は、思わず言葉を漏らした。
「この景色、知ってる……」
そこから臨む景色は、さっき見た夢の中と同じもの。僕が空から見下ろしたあの景色だ。
躊躇っている時間はない。男が階段を駆け上がる足音が、すぐ下まで迫っている。
ある考えが頭をよぎった。
――これもきっとまた、夢だろう。
高を括った僕は、さっきとは違うセリフを残し、再びコンクリートの角を蹴った。
「僕は、夢の中だ……」

目が覚めない。それなのになぜか、意識だけはある。真っ暗闇の中、ただ精神だけがフワフワと浮遊しているようだ。
「夢が繰り返されるのは、二度だけだよ」
幼い子供の声が聞こえた。
植物が発芽するように、その言葉は僕の心の中に柔らかく芽生えた。
「だからもう、夢は覚めないんだよ。わかったかい?君の夢は、もう覚めない」
本当に僕は、死んでしまったのだろうか?最後の夢こそが、僕の現実だったということなのか?だとしたら、ここは、死後の世界?
子供の声に諭されるようにして、僕は自分の死を受け入れてみようとしたが、
――死を望んでもいない人間が、どうして死ななければいけないんだ!
納得のできない死と、生への未練から、声にならない叫び声を上げた。

ドンッ!
衝撃に目を覚ました。
見上げる天井。見慣れた部屋。差し込む陽射し。清々しい朝。
「おはよっ!」
先月結婚したばかりの、まだ幼顔の残る妻が、無邪気に僕の上に飛び乗ってきた。
「おはよう……」
ぎこちない笑顔で微笑み返す。
まさかとは思うけれど、これも夢ってことはないだろうな。