隣人の歯ぎしり

夜になると隣人の歯ぎしりが、ギシギシと響いてくる。不快で眠れないというほどのものではないが、みんなが寝静まった頃を見計らっているかのように、その歯ぎしりは毎夜聞こえてくる。悲しいほどに一定のリズムで、それは鳴る。
――そんなに力んで生きてもしょうがないのに……――
希望を持って目覚めるわけでもない朝は怠惰でしかなく、伏し目がちになりながら味気ない朝食を飲み込む。
機械のように、決められた時間に労働を始めている日々。仕事?作業?やりがい?いや、まぎれもなく、単純極まりない労働だ。
他人に干渉することもなく、ただただ無言で身体を動かす。止まる予定を失った汗が垂れ流れるクソ暑い日もあれば、凍え死にしそうなほど寒い日もある。地球がその表情をどんな風に変えようとも、俺たちは、わけもなく土下座したような気分で、腰を丸めながら労働をする。
朝食と同じように、昼も夜も、飯を喰らうことに何ら感情を示すこともなく、食っているのか流し込んでいるのかさえもわからない間に、食事という名の作業を済ませる。
生きる目的を失った人間は、死ぬ目的さえも失ってしまう。心臓の鼓動のリズムさえもが、予定調和に感じられ、鬱陶しくなる。
一日の汚れを軽く洗い流したら、あとは、泥のようになって眠るだけ。ただ、それの繰り返し。
目を閉じて、その単調な繰り返しを思い描きながら寝入ろうとする頃、今日もやっぱり聞こえてくる。隣人の歯ぎしり。
歯ぎしりって、不満を抱えていたり、悔しさを噛みしめたり、何かに抗う意志があったり、それが満たされないストレスからギシギシとやっちまうんじゃないのだろうか?
――俺たちは何も変えられないし、抗ってみたって、どこにも逃げられないってのに――
歯ぎしりの余力をぶつける相手もいないまま、隣人は何に抗おうというのだろうか。

それにしてもここは、本当に無機質でうんざりする。これほどまでに色のない無機質な空間が、人間から感情を奪い去っていくものだなんて、それまでは知らなかった。
寝そべったまま、イメージの中で、天井に向かいボールを投げる。それは重力と呼ばれる自然の摂理に負け、俺の顔を目がけて落ちてくる。
――なるほど。天に向かって唾を吐けば、自分の顔面に降りかかってくるわけだ――
今夜も聞こえてくる、隣人の歯ぎしり。
寝室を共にでもしていたら、迷惑でしょうがないような音なのだろう。それが、この空間にいることで、心地よくも感じてしまうから不思議だ。
他人を意識することで自分の存在を確かめられるから。他人との差分で、自分の輪郭が描画され、それが自分なのだと意識できるから。
眠りに落ちてしまいそうだ。羊の数を数える手間が省けるよ。

隣人の歯ぎしりが聞こえなくなってからかなりの月日が経ったある日、心なしかいつもと違う静けさに違和感を覚えつつ、眠ろうとしたその時、冷たい床を蹴りつける足音と、男たちの叫ぶ声が聞こえてきた。
「逃げたぞ!おい、逃げたぞ!どこから逃げやがったんだ!探せ探せ!」
鍵と鍵とがぶつかり合う金属音と、慌てふためいた声や怒号が飛び交う。
「四七九番だぞ!早く探せ!まだそう遠くには行ってないだろう!」
心当たりのある呼称番号。俺の隣人だ。
そう、俺たちは、刑務所の中で生きている。
刑務官たちの叫び声を聞いて、一瞬で理解した。隣人は歯ぎしりをしていたんじゃない。脱獄するために、穴を掘り続けていたんだ。まるで、映画の筋書きみたいに。
「おい!部屋の中に穴が開けられてるぞ!ここから逃げたのか?ライトを当ててみろ!果てしなく続いてるぞ、この穴!」
思った通りだった。隣人は、来る日も来る日もギシギシと、閉ざされた社会に抗うように、ここではないどこかへと思いを馳せていたんだ。
隣人は何を望んでここから脱獄して行ったのだろうか。縋るくらいに追い求めてしまうものを持たない俺は、わずかばかりの嫉妬を、隣人に抱いた。
――何も変えられないなんて決め込んでいた俺の方が、よっぽど惨めで情けないな――
異様な事態が起ころうとも、微動だにしない灰色の天井を見つめながら、奥歯をギシギシと噛み締めてみた。