出る、民宿

「他に何かご不明な点などございますでしょうか?」
年の頃は七十くらいだろうか、腰の曲がり方が少し陰気な印象を与える女将。皺が刻まれた手で部屋の鍵を手渡しながら、尋ねてきた。
「不明点というか、こんなこと聞くの、アレなんですけど……。やっぱり、出るんですか?この民宿……」
『出る』とは、俗に言う、幽霊だ。I市の山奥にひっそりと佇むこの民宿は、雑誌の怪談特集に取り上げられるほど、『出る』で有名。好奇心から、俺は彼女とこの民宿に泊まってみることにした。本当に幽霊が出る宿っていうのが、どんなものなのか体験してみたくて。
「まぁ、出ないとは言いきれませんけども。もし、気になされるようでしたら、別の民宿や旅館に移られることをお勧めいたしますが……」
そう答える女将の目には、申し訳なさそうな陰りは見られず、それどころか、一瞬だけ、狡猾な光を放ったようにさえ見えた。

「うっわぁ。いかにもオバケ、出そうじゃない?」
古ぼけた畳の上に、長方形のくたびれた木の座卓がひとつ。床の間には、描かれたものが見えないほどに朽ちた掛け軸があり、薄い障子戸で仕切られた奥には、景色を望みながらくつろげる次の間が。
不吉なことがいつ起こってもおかしくないジメッとしたな空気に、彼女は少し不安げな様子を見せ、
「ここまでリアルだと、ちょっと笑えないね……」
なんて言うもんだから、俺も思わず、
「そうだね。あんまり離れないでいようよ」
と、男らしくない発言をする始末。
その後、大浴場でお風呂に入る時以外は、彼女と行動を共にした。
部屋食での懐石料理はそれなりに豪華で美味しく、ついついお酒も呑みすぎてしまった。
「もう一回、お風呂入ろっか!」
お腹も満たされ酔いの回りも手伝って、食後にもう一度お風呂に入ろうということなった。
すっかりくつろいでいたので、ここが、幽霊が『出る』で有名な民宿だなんてことも、すっかり忘れてしまっていた。

「じゃあ、おやすみ」
言いながら、俺は部屋の灯りを消した。
「おやすみ」
真っ暗な部屋の中は、薄っすらと月の明かりが差し込む程度で、仄暗く青白い。
民宿の下を流れる川の音に耳を澄ませ、その不動のリズムに癒されながら眠りに落ちて行きそうになったその時、カサカサと衣類が擦れるような妙な音が耳に飛び込んできた。
「なぁ……」
隣で寝ている彼女を突きながら、できるだけ小声で彼女を起こした。
「なんか、聞こえない……?」
カサカサというその奇妙な音は、その音を増しながら、どんどんとこちらに近づき、やがて枕元まで迫ってきた。
恐怖のあまり目を閉じていたが、正体を見てやろうと、思い切って目を開けてみた。
するとそこには、輪郭がぼやけた女性の姿が。
「出たぁー!」
俺は思わず大声で叫んでしまった。
「女の幽霊だぁー!」
隣で彼女も震えている。
「女の幽霊?」
その時、次の間から、焦りを帯びたしわがれ声が聞こえてきた。
声のほうに目をやると、障子戸がすごい勢いで開かれ、手に武将を模した看板のようなものを持った女将が、客間に飛び込んできた。
「今、女の幽霊とおっしゃった?」
「はい、俺の目の前に……」
女将はその幽霊を見るやグイッと近づき、
「あんた、何者や?私がオーナーに命じられて、こうして武将のシルエットで幽霊を演じて、お客さんを脅かして、民宿の人気を出そうと思ってやっとるのに、邪魔せんといておくれ!」
女将が凄むと、女の幽霊もたまらずに、
「私の方こそ、愛してくれたオーナーから命じられて、本物の幽霊が出たらもっと人気が出るだろうというアイデアを実現するために、この身をなげうって、こうして夜な夜な、出てるのよ。邪魔しないで!」
二人は顔を紅潮させながら、
「オーナーに愛されてるのは、私の方よ!」
声を揃えて叫んだ。
幽霊の怖さよりもはるかに凄みのある、女の情念が、今まさにこの民宿に、出た。