消えないタバコ

そこは二人の行きつけの居酒屋。男と女はカウンターに腰掛け、深刻そうに話をしている。どうやら別れ話のようだ。
「もうこれ以上、あなたとは一緒にはいられない。私の気持ちがもう、あなたには向いてないから」
男は静かにじっと前を向き、黙って女の話を飲み込んでいる。
「だからもう、別れましょ……」
結末の台詞を突きつけられた男は、溜息を吐くと、ゆっくり口を開いた。
「君の気持ちはよくわかったよ。ただ、この最後の一本のタバコ、このタバコの火が消えるまで、その間だけは、俺と一緒にいてくれ。お願いだから……」
小声で力なくそう呟くと、タバコを一本抜き取り、手にしたジッポライターに力を込め、最後の火を点けた。
二人の間には、静かに煙が立ち昇る。ユラユラと昇ったかと思えば、エアコンの風に流されて、あちらこちら、壁にぶつかっては散らばった。
店内には昭和の歌謡曲が流れ、懐かしさが沁みる。マスターは黙々と焼き鳥を焼き続け、隣の客たちは、ガヤガヤと他愛もない会話に花を咲かせている。
そんな時間が二時間近く流れた時、しびれを切らした女が、口を開いた。
「ねえ、どうしてそのタバコの火、消えないのよ?」
「俺に聞かれたって知らないよ。君への未練が、ずっとこのタバコに火を灯してくれているのかも知れないね」
「ちょっと……いったい、いつ消えるのよ」
「約束だからね。このタバコの火が消えるまでは、一緒にいてくれるって」
男はそう言うと、不自然なほどに威勢よく、煙を天井に向かって吐きだした。

あれから何年たっただろうか。あのタバコの火はまるで消える気配を見せず、そのために女は、今でもずっと、男と一緒にいる。
別れ話を切り出したのには、それなりの覚悟があった。だから、そんなすぐに別れる意志が変わるはずもなく、タバコの火が消えるのをただただ待った。
――これじゃ、いつまでたっても、この人と別れることができないじゃないの――
指を咥えて待っていては埒があかないからと、男が寝ている隙に、静かに煙を昇らせるタバコの火種に、水をかけたりもした。しかし、タバコの火は消えるどころか、それに抗うかのように、ますます火の勢いを強める素振りさえ見せた。
消えないタバコのせいで初めの内はしぶしぶ男と一緒にいた女も、それなりに楽しい思い出が重なっていくと、付き合いたての頃の愛しい感情が徐々に蘇り、気づけば男のことを再び想い始めていた。
――この人とはいろいろあったけど、やっぱり愛しているんだわ――
今では、タバコの火を消すことさえ、なくなっていた。

ある日二人は、再び行きつけの居酒屋で話をしていた。あの日と同じように、深刻な表情で顔を向き合わせている。
「俺、他に好きな人ができたんだ……」
男は少し眉間に皺を寄せながら、意を決したように女にそう告げた。
「そんな酷いことないでしょ……。あの日、あなたが一緒にいてくれって言ったから、私、こうしてずっとあなたと一緒にいるのに」
女は涙した。
「でも、タバコの火、消えてないよ……」と、力なく男に訴えかけた。
それを聞くと男は、「この火は俺が点けたものだから、俺自身なら消せるんだ」
テーブルに置かれた丸型のメッキ灰皿の上にタバコの先端をそっと乗せると、ひと思いに力を込め、その火を消した。
女は無表情でその光景を眺めていた。まるでその事実を受け止めることを拒むかのように。
「さあ、終わりにしよう」
どこか清々しい声色でそう告げた男に対して、女はなぜか威勢のいい笑顔を披露した。
「ねえ、ひとつだけあなたに聞いて欲しい話があるの」
「なんだい?」
男が戸惑いながらもそれを承諾すると、女は自分のコートの左ポケットに手を突っ込み、ある物を取り出した。
「実は私、昨日からタバコを吸い始めたの。だから、一本吸ってもいい?あなたなら分かるわよね、この一本の意味が」
簡易ライターの火に灯されるタバコを見つめながら、男はゴクリと唾を飲み込んだ。