鈍色の扉

田崎は中小企業に勤める、うだつの上がらないサラリーマン。本人は一生懸命頑張っているつもりだが、ミスも多く要領も悪く、上司から怒られ続ける毎日。同期入社の同僚たちは順調に出世街道をひた走り、万年平社員の田崎は、同僚たちの背中を追うばかりか、その姿さえももう見失ってしまい、ひとりポツンと取り残されていた。
――こんな毎日を過ごしてて、果たして意味なんかあるんだろうか――
昨日の得意先訪問の時もそうだ。
段取りの悪い田崎は、持参する資料の準備に手間取り、打ち合わせ開始の時間を大幅に遅れて得意先の会議室に到着した。
「本当に申し訳ございません……」
「田崎さん、アンタ、もう役不足だわ。島田部長に頼んで、担当変えてもらうし、もう来なくていいよ」
呆れ果てた先方の常務から、引導を渡されたばかりだった。

そして今日もそう。
得意先のひとつであるT製薬のアポイントへの出発時刻を大幅に過ぎてしまい、駅までの道をがむしゃらに走っていた。
その時、田崎は、路地の隙間に奇妙に佇む、ある鈍色の扉を見かけた。そして、その扉に駆け寄るひとりの男性。その男性は、扉をひと思いに開くと、スルスルと向こう側へと吸い込まれていった。
その鈍色の扉が普通の扉と違っていた点は、開かれた隙間から覗く景色が、路地の先ではなく、全く別の景色だったということ。
――なんだ、あの扉?アニメに出てくる便利な道具みたいなもんだったりして――

ある日、田崎は寝坊した。遅刻してはいけないと、全力疾走で会社に向かっている途中、あの路地の近くを通った田崎は、例の扉を開いて入ってみようかと考えた。
――何か起こるかもしれないし――
田崎は扉の前に立つと、イチかバチか、扉の向こう側に自分のオフィスが広がっていることをイメージし、扉をくぐった。
田崎は目を疑ったが、そこはまぎれもなく、自分のオフィスだった。
――やっぱり、魔法の扉なんだ――
そうして、田崎は遅刻を免れた。

自分の望んだ場所へ連れて行ってくれる扉。
おかげで、会社に遅刻することはおろか、得意先訪問の時間に間に合わないといった失態をすることもなくなった。
そんな失態はなくなったものの、仕事がまるでできないということには変わりはない。上司から怒鳴られる日々は続き、田崎は心底疲れ果てていた。
そんなある日、田崎が携わっていたプロジェクトで、大きな問題が発生した。それは会社の業績に致命的な大打撃を与えるほどの問題。
田崎は珍しくミスもせず、自分のペースでそのプロジェクトに携わっていた。それにも関わらず、チーム内の誰かの陰謀により、その全ての責任が田崎にあるように捏造されたのだ。
――なんで俺が?いったい、俺が何をしたっていうんだ?俺はただ、自分のできることを自分なりに頑張っていただけなのに――
「田崎、今回のミスは今までのミスとは違うぞ。お前に全責任を取ってもらうからな!」
「プロジェクト失敗につながるこの資料、お前の作成者印がこうして押されているんだ、逃れようがないだろ!」
上司や同僚からも、徹底的に攻撃を受けた。
田崎は悔し涙を拭いながら、事務所を飛び出し、ひとり、本日最後のアポイントに向かうため、オフィス街をフラフラと歩いていた。
――こんなボヤッとしてたら、アポに遅刻してしまう。また扉のお世話になろう――
力なく扉の前に立つ田崎。ドアノブに手をかけたとき、田崎はあることを思いついた。
――そうだ、俺の資料が捏造されている現場を頭に描き望めば、扉はそこへ連れていってくれるのかも知れない――
田崎は自分の資料が改ざんされているイメージと、誰もいない就業後のオフィスを頭に描きながら、ゆっくりとドアノブを捻り、扉を開いた。
恐る恐る開いたドアの隙間から向こう側を覗いてみると、そこには消灯された後の人気のないオフィスが広がっていた。
音を立てないよう扉をくぐり、オフィスの中へ足を踏み入れた。生気を失ったデスクがズラリと並び、パソコンやプリンタの常時電源の小さな丸いランプが、あちらこちらで心細く点灯している。ふと自分の席の方に目をやると、手元灯りが点けられていることに気づいた。そして、その灯りの下には、人の気配が。
「おい!俺の机で何やってるんだ!」
田崎は自分に罪を被せた卑劣な人間を見つけた興奮から、大声で怒鳴った。
静まり返ったオフィスの中に、怒号が銃声のように響くと、それを聞いた田崎の席の気配は激しく慌てふためいた様子で、灯りのもとから消える素振りを見せた。
それを見た田崎は、怒りに背中を押されるがままに犯人の方へと駆け寄っていった。
「横山…。お前が俺をハメようとしたんだな?」
手元灯りに犯人の顔が照らし出されたことで、それが同期の横山だということがわかった。
横山は入社してすぐに営業として華々しく活躍し、会社からもその高い能力を認められ、異例のスピードで出世していった。上司はもちろんのこと、会社の幹部の人間からの評価も高く、それだけに大きなプロジェクトの重要なポジションを任されることも多かった。
「おお、田崎。珍しいじゃないか、こんな時間に会社にいるなんて。やり残した仕事でもあったのか……?」
「質問に答えろ!お前が俺をハメようとしたのか?俺は知ってるんだ、俺の資料を改ざんして、誰かが自分のミスを俺に擦りつけようと企んでることを!」
なぜ田崎がそのことを知っているのかと、横山はまるで狐につままれたような表情を一瞬見せたが、どうせ知られていたところで大したことじゃないと高を括ると、暗闇の中でもその狡猾さが浮かび上がるくらいの、卑劣な笑みを口元に浮かべた。
「お前みたいな、なんの役にも立ってないような人間は、いてもいなくてもおんなじだろうが。まぁ、俺の踏み台になれたことを光栄に思って欲しいくらいだ!」
その言葉を聞くと、田崎の怒りはさらに噴き上がり、気づけば横山に掴みかかっていた。
それを振りほどこうともがき、逃げようとする横山を、田崎は力ずくでどんどんと追い詰めていった。
――そうだ、あの扉で、こいつをあの世に送ってやる――
ほんの数分前に自分が入ってきた扉の方に目をやると、そこにはまだ鈍色の扉がしっかりと立っているのが、暗闇の中でも確認できた。
強引に横山を扉の方へと追い詰めた後、足で扉をギィと開けた。
「横山!お前をあの世に送ってやる!さあ、あの世に送られる気分を、頭の中に描いてみろ!」と叫ぶと、横山の身体を背中から蹴り飛ばした。横山は両手をバタつかせ、無様な格好で、扉の中に吸い込まれていった。

田崎は自宅に帰ると、あまりの気だるさから、しばらく放心状態で食卓の椅子に身体を預けていた。
テレビからはバラエティ番組の映像と音声が流れているが、まるで意識の中には入ってこない。冷蔵庫から取り出したまま置きっぱなしの缶ビールにようやく手を伸ばすと、力なくプルタブを開け、半分ほどを喉に流し込んだ。
――まさか横山の奴が、あんなに卑劣なことをしやがるなんて――
自分を落としいれようとした人間の顔を頭に思い浮かべると、再び怒りが湧き起こると同時に、途方もない疲れがどっと押し寄せた。
残りの半分を飲み干そうと、缶ビールに手をかけた時、トンッと肩に小さな衝撃を感じた。
鼓動が一気に高まった。それは誰かの手であり、背後から突きつけられた湿った声は、つい先ほどまで耳にしていた、あの、あざとい声だった。
「なぁ田崎、知ってたか?あの世ってのは、極楽浄土の安楽な世界。望んだことは何でも叶う。だから、望めば何だってできるんだぜ!こうしてお前の前に再び姿を現すことだってな」