パラレルな世界の住人

それはタケルが横断歩道を渡ろうとした時だった。ハンドルの制御を失い狂気を帯びた車が、スピンしながらタケルの身体に襲いかかってきた。激突の生々しい音が辺りに鳴り響いた後、道路の上には、突き飛ばされ横たわるタケルの身体と、二度と点滅することのないヘッドランプ。
地底に引きずり込まれるように沈み行く意識の中で、タケルは微かな声を聞いた。

「生命の欠損を補填しなきゃな」

ゆっくりと頭を持ち上げ、声の主の方を見やるタケル。そこには、表情なく佇むひとりの青年。その青年は、絵画に描かれる天使のような真っ白な衣服を身にまとっている。
「それじゃ、俺が生命の欠損を補填するよ」
「え?どういうこと?」
困惑するタケルに向かってその青年は、淡々とした口調で説明を始めた。

「人間の命というのは、それが正しく尽き果てるまで全うするために存在する。だからそれが何らかの理由、たとえば事故や病などで途絶えるようなことがあれば、それを補填し、命が無事終焉を迎えるまで生きてもらう」
青年の言葉があまりにも空想的過ぎて、タケルはその意味を掴めないでいた。呆けた表情で見つめるタケルに、青年はさらに説明を続けた。
「ほら、その証拠に君の意識はすっかり戻って、身体の痛みだって何ひとつないだろ?」
タケルは事故の爪痕が何ひとつない自分の身体をあちこち動かし、どこにも変わった様子がないことを確かめ頷いた。
「ただし、君は今、さっきまでいた世界とは別の世界に生きているんだ。つまりここは、パラレルな世界。さっきまでの世界での君は、残念ながら事故で死んでしまった。その命だけを取り出し補填したんだ。一度途絶えてしまった命は、その世界では補填できないから。そうして君は今、このパラレルな世界で、再び命を全うするためにこうして生きている。今のこの世界は、さっきまでの世界とは同じようでいて、全く違う」
その手の話を扱ったSF小説を読んだ記憶を思い出し、架空のストーリーに照らし合わせ、無理やりに状況を納得させようとした。
「ってことは、さっきまでの世界の俺は、もう、いないってこと…?」
「そういうこと」
「そんなあ!俺はヒトミの誕生日に、プレゼントを渡しに彼女の家に向かっていたところだったんだ。いきなり俺が消えていなくなるなんて、彼女が信じられるわけないだろ!」

自分の身に唐突に訪れた現実離れした話の展開に苛立ち、青年の足元をドンドンと叩いた。

「なあ、お願いだ。俺がパラレルな世界に行ってしまったことは絶対に言わない。どうせ言っても信じてもらえないだろうから。だから最後に、さっきまでの世界に戻って、ヒトミに別れだけを告げさせてくれないか?」
「今のこの世界では、君と恋人は何も変わらず一緒なのにかい?」
「だからって、ついさっきまでの世界のヒトミを無視はできない……」

タケルは青年の目の前で両手を強く合わせ、まるで許しを請う罪人のように頼み込んだ。
「わざわざそんなことしなくったって、この世界のことだけ考えていればいいのに……」
青年は少しだけ首を傾け呆れた様子を見せた。
「仕方がないなあ。特例だぞ」
そう言うと青年は、どこからともなく取り出した真鍮の釘のようなものを、躊躇することなくタケルの首元に突き刺した。すると夜空の闇の中に点在する雲の隙間から、煌々と光が差し込み、それは瞬く間にタケルの身体を包み込んだ。まるで空に吸い上げられるようにして、タケルの身体は光の中へと消えていった。

 

「なあ、ヒトミ?」
「どうしたの、急に神妙な顔しちゃって」
「あの……ヒトミに伝えなきゃならないことがあるんだ……」
「なに?悲しいこと?」
苦笑いを浮かべ、少し心配そうに表情を曇らせるヒトミにタケルは告げた。
「俺、ヒトミとはもう付き合えないんだ。ごめん。もう二度と会うこともできない…」
こんな台詞で二人の最後に幕を引くことに底知れない悔しさを感じ、項垂れ顔を上げられずにいるタケルの震える肩を、ヒトミはポンポンと叩いた。
「そんな優しい嘘、つかなくたって、大丈夫だよ。ちゃんとわかってるから」
「え?」
反射的にその顔を上げたタケルの目を真正面から見据えながら、ヒトミは少しだけ微笑んで言った。
「私もパラレルの世界から来た人間だから」