情報化社会の崩壊

「これは悲惨なことになるぞ……」
ある研究所に勤務する老博士は、天井を見上げながらボソリと呟いた。
「そうですね……。これはある種の、情報化社会の崩壊を意味しますね……」
老博士の隣で立ちすくむ若い助手が、青ざめた表情で応えた。

現代社会には膨大な量の情報が存在するが、その中に、あるウイルスが混入したことが判明した。そのウイルスは、感染した情報を改ざんしてしまうというありふれた種別のものなのだが、これまでのものと明らかに違っている点は、ウイルス自身でもどこへ感染していくのかが分かっていない点と、そしてもうひとつは、情報という情報、インターネットからマスメディアの広告、世の中に存在する情報の全てが、感染の対象となっている点だ。
「人々は一気に混乱するじゃろうな」
老博士は右手を腰に回し、軽くトントンと叩きながら、目を細めはるか遠くを見据えるようにして話し始めた。
「今までの情報化社会の危機では、『何か』が改ざんされてしまったり、『何か』に不可解な点があったり、『何か』が嘘だということが判っておった。だがしかし、今回のウイルスが決定的に違っている点は、『何が』改ざんされてしまっているのかが、全くもって判らないというところにある。これはつまり、『何か』を疑えばいいという楽観的な世の中から『何を』信じればいいのかが判らないという悲観的な世界へと変わってしまうことを意味する」
「なんと恐ろしい事態に……」
「疑心暗鬼に密閉された世界じゃな……」

すでに世の中は混乱を始めていた。
驚くほどのスピードで増殖を続けるウイルスは、世の中に存在する情報に対して、不規則で無差別な動きを見せながら感染していった。
そして、どの情報が改ざんされているのかが特定できないため、人々はどんな情報をも信じることができなくなってしまっていた。
インターネットに存在する、群集の叡智を結集した百科事典サイトの内容や、人々が知恵を共有し合う知恵袋の内容はもちろんのこと、オンラインショッピングの商品の価格や天気予報の情報、交通機関のダイヤ情報など、全てが感染してしまっているかも知れないし、感染していないかも知れない。人々は到底その不穏な情報を信用することができなくなってしまっていた。
もちろん、テレビで放送される音声や、広告表示など、さらには街灯に掲出されている看板やデジタルビジョンに映し出される映像なども改ざんされている可能性があるため、一切の信用を置けなくなってしまっていた。

老博士はテレビのリモコンを取り上げ、スイッチを入れた。画面の中には、ぎこちなく口ごもるニュースキャスターの姿が。
「そりゃそうじゃのう、原稿内容も改ざんされとるかも知れんからのう」
緊迫した表情でひとり焦りを見せる助手が、博士に詰め寄った。
「博士、これから人間は、いったい何を信じて生きて行けばいいのでしょうか?」
少しだけ朗らかな声で老博士は、「そりゃ、人間自身を信じて生きていくしかないじゃろうが」と答えた。
「それが、博士……」助手はゴクリと唾を飲み込んだ。
「人間の心の中にも、どうやらそのウイルスは感染できるらしく、人間の心も改ざんされてしまう可能性があるのです……」
それを聞くと老博士は一瞬だけ目をパチクリとしたかと思うと、ふいに豪快に笑い出した。
「人間の心にも?ワハハハハハ。なあに、そんなもん、心配いらんよ」
老博士は、わざとらしく顔の前で手をブンブンと振った。
「しかし、人間にまで感染してしまうとなると、この世界ではもう、何ひとつとして信じられるものがなくなってしまうのでは……」
助手の焦りを遮るようにして、老博士は話しだした。
「人間はもともと、自分の心なんて、自分自身で改ざんしとるじゃろうが。自分の思った通りに真正直に生きとる人間が、どれほどいるだろうか。いつしか人間は、世の中を渡り歩くために、体裁良く自分の心を偽ることに慣れてしまっとるからのう、悲しいことに」
「そう言われれば、確かに……」
老博士は助手の肩に軽く手を置いた。
「ワシから言わせれば、ウイルスなんかよりも、人間の方がよっぽど邪悪じゃよ。心配はいらんよ。免疫を持っとらん人間なんて、ひとりもおらんはずじゃ」