粋な計らい

駅前の喧騒を抜け、裏道を十分ほど歩いたところに、そのバーはある。
四人が並んで飲めるほどのカウンターは、無垢材が醸し出す木の質感が心地良く、いくつもの孤独な宴を見守ってきたその年輪は、レトロな雰囲気と温かさを醸し出している。壁際には、二人掛けの小さなテーブルが、二つ。二人きりの孤独を楽しみたい客は、好んでこのテーブルでアルコールを嗜む。

指が弦を滑るギターの音がもの悲しさを引き立てる古めかしいブルースの店内BGMは、時折挟まれるブルースハープの息使いに、より一層の深い調べを漂わせた。
マスターはここのカウンターの中に立ち、さまざまな人間の憂鬱を眺めてきた。時には口を挟みながら、時にはただ見守ることで、ここで過ごすそれぞれの客のひとときを、感慨深いものへと演出してきた。今ではもう、すっかり、年老いてしまったけれど。
今夜もこのバーには、そんな酔客たちが集う。

カウンターにはトレンチコートを羽織った中年の男性が、ウイスキーのロックをチビチビやっている。壁際のテーブルには、三十代前半と思われる若い男女が、顔を寄せ合い話し合いをしている。それぞれの客の間には、ひらひらと立ち昇るタバコの香り。その煙のシルエットが空間を繋ぎ合わせている。

「その後、上司とは和解したのかい?」
壁沿いの棚に並ぶ酒瓶のラベルの向きを正しながら、マスターは背中で中年の男性に語りかけた。
「上手く行くわけないさ、あんな奴と。ありゃただの悪者だよ、悪党だよ……」
「悪党から見れば、正義のほうが悪党だからねえ、仕方ないねえ、社会にいるんだもの」

男性の片手に持つウイスキーグラスの中では、ジェンガのブロックがスローモーションで崩れるように、溶け出した氷がゆっくりと傾き、底へと沈んだ。
マスターは目の前の男性の愚痴に会話を挟みつつ、壁際で顔を寄せ合いながら話しをする、男女の客から漏れ聞こえる会話に耳を澄ませていた。
「でもシンジはもう助からないのよ、どうやったって……」
「そんなことはもう分かってるさ、だからって……」
「なんでシンジがこんな病にかからなきゃいけないのよ。あの子がどんな悪いことをしたっていうの?」

お互いの口と耳を交互に寄せ合いながら小声で会話をしているものの、その会話の内容から悲痛な状況にいる二人だということは、たやすく想像がついた。
男のほうが項垂れながらタバコに火をつけた。二人の間には、タバコの吸殻で山盛りになった灰皿がひとつ。頂きに横たわる揉み消されたタバコは、次の灰が落とされるのを、静かに待っていた。
二人の沈黙をそっと破るように、マスターが声をかけた。
「壁際のおふたりさん」
店内には自分たち二人しかいないかのように錯覚していたことをふいに是正されたように、二人ともがハッと声のする方に顔を向けた。
「シンジ君は、もう助からんのですかな?あっ、こりゃ申し訳ない。まるで盗み聞きしてたみたいですなあ」
微笑みとも苦笑いとも取れるような表情を作りながら、マスターは小さく笑った。
「ええ…。シンジは不治の病に冒されていて、もう命が助からないんです……」
タバコの煙を壁側にフーッと吐き出しながら、掠れた声で男は話した。
それを聞いたマスターは、少しだけ首を傾げ、「なるほど、それはそれは気の毒に……」と肩を落とした。
「じゃあ、こういうのはどうでしょう。私の命を、シンジ君に差し上げましょうかね」
さっきよりも深い笑顔を見せたマスターは、快活な声色でそう言った。
「マスター、ありがとうございます、なんてとても言えないですよ。だって、そんなことをしてしまったら、マスターの命がなくなってしまう」
「なあに、こんな老体、じきにアウトになってしまいますからねえ。それよりも、これから希望多き人生を歩んでいかれる子供さんに生きてもらうほうが、よっぽど世のため人のためになるってもんですから」
「でも……」
二人はお互いに顔を寄せ合い、心の中でマスターの提言を受けようかどうしようかと悩んでいた。それでシンジが助かるのなら、ぜひともお願いしたいところだけれど、そんなことを果たして本当にお願いしてもいいものだろうかと、自分たちの意志を頼りなく揺らし続けていた。
そんな迷いを吹き飛ばすように、二人のそばまでゆっくりとマスターが歩いてきた。
「どうぞ気になさらず、命を受け取ってくださいな。バーには付き物の、よくあるあれじゃないですか。マスターから、ってなサービス、粋な計らいです」
それだけ言い残すとマスターは、バーの入り口ドアの方に歩み寄り、西洋の街角が描かれた絵画を納めた額縁の、その傾きをそっと直した。

少年と老人がストレッチャーに乗せられ、手術室へと運ばれていった。その後に続くようにして、白衣を来た医師が、一糸乱れぬ足取りで、重々しい扉の向こう側へと入っていった。
マスターはぼんやりと目を開け、自分に執刀する医師の顔を見上げた。
「マスター、久しぶり」
医師はうつろな目をしたマスターに声をかけた。
「はて……。先生は、ウチの店のお客さんだったのかな?」
医師は照れ臭そうな表情を浮かべた。
「マスター。俺は命の移植手術の名医と呼ばれているんだ。なんでそんな風に呼ばれているかっていうと、移植する時に、元の命を残したまま、移植する相手の命も蘇らせることができるからなんだ」
「ほほう。そりゃ、名医ですなあ」
「今回は、単純な移植手術として、オペを担当させてもらうことになってるんだけど、俺はマスターの命を残したまま、少年の命も救うってことを、特別にやってのけようかと思ってるんだ」
「そりゃ光栄じゃが、そんなことしてもらっても構わんもんかね?」
「覚えてないかな、マスター。俺が、未熟者の頃に、金も持たずにマスターのバーを訪れた時のこと」
マスターは瞼を二度ほどパチパチとした。
「そういや、お前さん、あの時の若者かい?」
「やっと思い出してくれた」
医師は手術室には似合わないような緩んだ笑顔をその目に浮かべた。
「マスターはあの時、金も持たずにウイスキーを飲んでいた俺に、出世払いでいいなんて言って快く酒を飲ませてくれた。俺にそんな粋な計らいをしてくれたんだ。俺はあの日の恩を一瞬たりとも忘れたことはないよ」
「若い時分は誰だって、金もなけりゃ、力もない。でもお前さんは貪欲な目をしておったからのう。可能性という目の前に大きく開かれたドアから、あと一歩出て行けない若者の背中を押してやるのは、年を食った人間の役目じゃからの。そんな気持ちがあったからか、それとも単純に、やっかいな若者に金を請求するのが面倒だっただけかも知れんが」
マスターはそう言うと、昔を懐かしむような表情で天井を見上げた。
「だから、俺にマスターの命を救わせて欲しいんだ。いいだろう?マスターはまだまだ長生きして、俺みたいな落ちこぼれをたくさん救ってやって欲しいんだよ」
そういうと医師は、笑顔を閉じ込め、真剣な眼差しでマスターの顔を覗きこんだ。
「人のことを救ってやるのは、お前さんの仕事じゃろう」
マスターは、笑った。医師も、それを見て、笑った。
「じゃあ、マスターに恩返しさせてもらうよ。俺はマスターのおかげでこうして世に出ることができたんだから、俺にも粋な計らいをさせてくれよ。出世払いをする時が来たってことで」
医師はオペの器具を手に取りながら、マスクの中で小さく息を吸うと、晴れ晴れしい表情を見せながらマスターにそっと伝えた。
「少なくとも、ウイスキーの代金を支払えるくらいには、出世したんだぜ」