夢の空気入れ

「そうなんじゃ。この空気入れ機はのう、夢をパンパンに膨らませてくれる空気入れなんじゃよ」
辛子色のカーディガンを羽織り、白い顎ひげを蓄えた、小柄な自転車屋の店長は、来店した客の男に向かってそう言った。
「へえ。そうなんですねえ。だから、夢の空気入れ機なんて書いてあるんですね」
男は興味津々といった表情で、何度も相槌を打った。
「試しにいかがかな?」
店長はニッコリと微笑んだ。
「あっ、じゃあ、試しにひとつ……」
店長は丸くなった腰を折り曲げ、地面に寝そべっている接続口を男の胸に押し当てると、両手でハンドルを握り、スーッと静かに押し込んだ。

「いかがかな?」
「なんだか、まるで子供の頃に戻ったような気分ですねえ」
店長はそれを聞くと、目尻の皺をこれでもかというくらいに皺くちゃにした。
「夢もなあ、自転車のタイヤと同じで、萎んでくるもんなんじゃよ」
薄手のカーディガンの前ボタンを留めながら、店長は話し出した。
「夢を持ち始めた頃は、胸がパンパンに膨らんどるじゃろ?期待と希望がたくさん詰まって、胸がドキドキしとる。じゃがなあ、生きていく中で、挫折したり、はたまた理不尽なことを突きつけられて、いつしかその胸の膨らみも、小さく萎んできよるんじゃ」
「そうですね」
「でもなあ、ほんとはそんなこと、夢を諦める理由なんかにゃ、ならないんじゃよ」
「でも、なかなか難しいですよ、そう言われても。いろいろありますし……」
「たいていの人はそう考えとるがのう。でもな、お前さん自身の思いの根っこを大切にしてやらんとダメじゃ」
「思いの根っこ?」
「たとえばお前さんの夢が、野球選手になることとするじゃろ?で、プロ野球選手になれなかったからといって、その夢が破れたことにはならんのじゃよ」
店先には、真新しい自転車が規則正しく並んでいる。二人の少年がそれを横目に見ながら、甲高い声を響かせ、店先を駆けて行った。
「プロ野球選手になりたかったのか、野球がしたかったのか、思いの根っこをしっかりと見つめてやらんといかん。お前さんがもし、野球がしたかったというのなら、プロ野球選手になれなかったとしても、野球をすればいい。野球をやっとる時点で、根っこに抱えた夢はもう叶っとるからのう」
店長は右腕を小さく振り上げ、頭上にボールを投げるような動きをした。
「確かに、言われてみるとそうですね」
男は、右手の人差し指と中指を大きく広げ、フォークボールの握り方の真似をしてみた。
「ねえ、店長。この店には夢の空気入れ機があるってことは、店長の夢は際限なく大きく膨らませることができるんじゃないんですか?」
男はひらめいたような表情を作り、店長の方に顔を向けた。
「にひひ」
店長は無垢な少年のように、ずる賢そうな表情を浮かべたかと思うと、おもむろに立ち上がり、店内の奥、住居スペースになっている方へと姿を消した。住居と店を仕切る和風ののれんが、ひらひらと揺れていた。
近所の猫が暇つぶしに二度ばかり鳴いた後、店長はさっきと同じようにのれんを揺らしながら、店内へと戻ってきた。その手には、一冊の本が握りしめられていた。
「なんですか、それは……?」
「卒業文集じゃよ。小学校の頃のな」
店長は、男に見せるように、文集のページをパラパラとめくった。スッと止まったページの上には、少年の無邪気な文字で、こう書かれていた。
『町田隆史
ぼくの夢は、しょうらい、自転車屋さんになることです。お客さんに夢をあたえられるような、かっこいい自転車屋さんになりたいです。』
男の文字を追う目線の動きが止まると、店長が口を開いた。
「ワシの夢はもう叶っとるんじゃよ。もう萎むこともない。毎日が、夢見心地じゃ」
店長は再び屈託のない少年のような表情を浮かべ、男に向かって肩を震わせた。文集に夢を書いた少年の、ニンマリと笑う顔が、うっすらと重なって見えた。