不都合な記憶

「仕事がアホみたいに忙しくって、一週間とか二週間とか、あっという間に過ぎて、全く記憶にさえも残ってないときとか、ない?」
「あるねー。歳くってきたのか、特に最近、多いわ、それ!」

鈴木は会社の同僚と、仕事終わり、駅の近くの安い居酒屋で酒を飲んでいる。
近くの会社を出てぞろぞろと群がってくるサラリーマンで埋め尽くされた店内。まるで、サラリーマンのオアシスのよう。
「そんなだったら、いっそのこと、過ぎれば残らない記憶なんてさあ、事前にパスできたら便利なのになあ!」
瓶の底にわずかに残ったビールを注ぎきり、鈴木は大げさに声をあげた。

鈴木が今、手にとっているのは、半透明で緑色をした薬瓶。
これが記憶をオフにできるって噂の薬か。
自宅に届けられた謎めいた瓶を片手に、鈴木はボソリボソリと呟いた。

【効用】記憶にも残らないような時間の、その記憶を、事前にオフにすることができます。

来週からちょうど、ぶっ続けで某プロジェクトの調整業務が続く。連日徹夜続きが予想される。そんな毎日なんて、過ぎればどうせ記憶にも残らない。わざわざ過ごすことさえ面倒臭い。これはうってつけだ。

そう思い、鈴木は薬瓶から錠剤を一粒取り出し、そのままクイッと飲み込んだ。
早速、目の前の景色がぼんやりと薄れはじめ、強い酒を一気に飲み干したときのような、ズンという鈍い痛みがこめかみを襲った。
霞む視界の中で鈴木は、薬瓶の裏の注意書きをぼんやりと眺めた。

『薬が作用(記憶がオフになっている状態)している間に服用者に起こる全てのこと、また服用者が起こす全てのことに関しては、一切の責任を負えません』

鈴木は普段通りの時間に目を覚ました。ボーッとして意識がハッキリするまでに、かなりの時間がかかった。
今日は、いったい何日だ?

「あっ」

携帯電話のカレンダーを見た鈴木は、思わず声をあげた。ここ二週間分の記憶が、ない。
鈴木は焦り、机の上のノートパソコンを起動させ、ここ二週間分の仕事のメール履歴を慌てて読みはじめた。

「おお!」

そこにはなんと、幾度か失敗などは繰り返しているものの、無事にプロジェクト調整を終えた鈴木の轍が。
記憶をオフにしてても、ちゃんと仕事できてるじゃないか、俺。
バリンッ!
ニタニタしながらメールを見ていた鈴木の目の前で、窓ガラスが激しく音をたてて砕けた。
外から金属片でも投げ込まれたのだろうか。
呆気に取られる鈴木の手元で、携帯電話が激しく震え、着信を告げる機械音が鳴り響いた。
それは、非通知設定からの着信。

「も、もしもし」
「君の先日の愚行は、我が巨大組織を壊滅までに追い込んだのだよ。この損害は日本だけに留まらず、世界中へと波及するだろう。我々は君の命を奪いに行く。その罪の重さを、たっぷりと悔やむがいい」

聞き覚えのないドスの効いた声の主は、話し終えると、一方的に電話を切った。

「記憶がなくなってる間に、いったい何をしてしまったっていうんだ…」

泣きそうな声でポツリと鈴木は呟いた。
鈴木はふと窓ガラスに目をやり、すぐ近くまで殺し屋が来ているのではと思い、とにかく家を出てどこかに身を隠さねばと考えた。
ありったけの所持金を掴み、適当なパーカーを羽織ると、一番走りやすそうなスニーカーを履き、悲壮感を連れて玄関を飛び出した。
裏口の非常階段から一階へ降りると、一目散に走り出した。

「あっ!あいつだ!待てコラ!」

後ろの方では、数人の男たちの怒鳴り声。
ひいぃ。このままじゃ、殺される。
その時、パーカーのポケットに、例の薬瓶が入っていることに気づいた。
そうだ、人はあまりに強い恐怖を感じると、穴があいたように、その記憶が残らないらしい。薬を飲んで記憶をオフにしてやろう。あとのことは記憶が戻ってから考えればいい。
鈴木は、ためらうことなく、薬を飲み込んだ。
薄れいく記憶の中、強引に肩を掴まれる感覚だけが残った。

鈴木の記憶が再びオンになることはなかった。