天国へのパスポート

まるで真空状態の中にいるかのような、その空間。その中には一本、揺るぎなく真っ直ぐに、上へ上へと伸びる階段がある。
男はその階段をゆっくりと昇っていく。なぜ昇っているのか、理由もわからず、時間の感覚も失ったまま、ただただ階段を昇っていく。
ふと上に目をやると、しばらく先に、小さな鉄の門が立っているのが見えた。そして、その門の脇には、ひとりの男が。

「どうもはじめまして。私はここで天国門通過許可認証の管理官をしています。名前は特にありませんので、名は名乗れませんが」

門の手前に辿り着くと、低く温かみのある声が男の耳に飛び込んできた。

「は、はあ」

男は、天国やら門やら、そもそもこの階段が何なのかさえも分からずに昇ってきたので、許可がどうのこうのと言われても、さっぱり状況が飲み込めない。
ただ、この管理官を名乗る男の言葉の中に、天国という単語が入っていたことで、男は自分が死んでしまったのだろうということを悟った。

「ここより上、天国に向かうには、パスポートが必要になります」
「パスポート?」
「右手にお持ちの、そのパスポートです」

男の右手には、一枚の紙切れが。ここまで無心で昇ってきたために、気づかずにいたけれど、その右手には、しっかりと紙切れが握られていた。
男はワケもわからず、その紙切れを管理官へと差し出した。
管理官はそれを受け取ると、眉間に皺を寄せながら、極端に細めた目で、紙切れに書かれた細かい文字を睨み、内容を確かめた。

「申し訳ないが、あなたを天国へと導くことはできません」
「は?」
「あなたのパスポートは、有効期限が切れてしまっております。ですので、ここより先へ通すことはおろか、ここにいることさえ許可できません」

管理官は、パスポートと呼ばれる紙切れを、無造作にちぎり、階段の脇へとばら撒くように捨ててしまった。

「じゃあ、俺はいったい、どうすればいいんでしょうか?」

不安な表情で、管理官の顔を見返す。その不安を無視するかのように、管理官は冷たく言い放った。

「どうするもこうするも、あなたはここにいてはいけない。一刻も早く、階段から降りなさい。急ぐ気がないなら、私が手伝ってあげましょう」

管理官はそう言い放つや否や、男の身体の向きを強引にぐるりと変えさせ、ためらうことなく、男の背中をその足で激しく蹴りつけた。
助けを請う間も叫ぶ間もなく、男の身体は階段の下へと、その勢いを失うことなく、落っこちていった。
霞んで見えない階段の遥か下の方、白い靄の中に、吸い込まれるように落ちて、消えた。

男の閉じられた瞳が、ゆっくりと開かれた。

「タケル!意識が戻ったの?」

女は病室のベッドに横たわる男の頬に、溢れ出る涙をこぼしながら、喜んだ。

「アキコ…俺、生きてる?」
「生きてる!生きてるよ!心電図が止まった時は、さすがにもう諦めるしかないのかって思ったけど、奇跡的にこうして生き返ったのよ!」
「またアキコの顔を見られて、俺、最高に幸せだよ」

男は自分の身体が動く喜びを感じながら、目元と口元を静かに動かし、安心を与えるように穏やかに微笑んだ。

「もう、離れないで!もう、どこにも行かないで!ずっとタケルのそばにいさせて…」

男の胸に覆いかぶさるように抱きつき、何度も肌の温度を確かめた。男の手を強く握ると、同じように握り返されるその感覚に、思わず女は、ありがとうと囁いた。

「さっきのパスポート、別に期限なんて切れてなかったんじゃないのかい?」
「なんのことだい?」
「いや、さっきの男のパスポートのことさ」
別の管理官が、近寄りながら、そう尋ねた。
「ああ、もしかしたら、有効期限に書かれていた9の数字を、逆さまに6とでも読み間違えてしまったのかも知れないなあ」
「君らしくないね」
管理官は、鉄の門をゆっくりとさすり、遥か下へと続く階段をぼんやりと眺めながら、ぽつりと呟いた。
「生きねばならん人間も、いるもんだよ」