罠と唇

そこは某所のバー。埃っぽいピアノジャズが流れる落ち着いた店内に、男と女は、いた。

「こうしてあなたと話ができること、とても嬉しく思うわ」
「そう言っていただけると、光栄だな」
カウンターに並び、抑えた声で言葉を交わす。

「せっかくだから、一杯おごらせて」
女はカウンター越しにカクテルを注文した。マスターは無表情でコクリと頷くと、身体を捻り、壁際のウォッカに手を伸ばした。
カウンターの上には、ソルティードッグとピーチフィズ。女は、グラスの淵に荒っぽく食塩が塗られたグラスを、男の前にすべらせた。

「乾杯。でもしましょうか」
女は細く綺麗な指でカクテルグラスの脚をつまみ、胸の高さまで持ち上げながら微笑んだ。
「遠慮、しておくよ」
「せっかくこうして会えたのに?」
「君はどうせ、特殊機関が派遣したスパイだろう?すぐにわかるさ」
男はソルティードッグのグラスを、中指でコツンと弾いた。
「このグラスに塗られてるのは、塩なんかじゃない。俺を瞬時に抹殺する、毒薬だろう」
「まさか?そんなはずないわ。でも、お酒は好みもあるでしょうし、イヤなら飲まなくてもいいわ。別に気にしないから」
「じゃあ、気持ちだけ受け取っておくよ」
店内のBGMは、ちょうど曲と曲とのつなぎ目、レコード針が擦る柔らかなノイズが漂う。
「ねぇ、私の気持ち、伝わらない?こうやってあなたに会えて、想いが抑えられないの」
「それは光栄だね」
「ねぇお願い。もう二度とあなたに会えないかも知れないのよ。この気持ち、どうしてくれるの?」
女は男にすがるような声で、詰め寄った。
「ねぇ、キス、して」
女は静かに瞳を閉じた。
「君は、任務のためなら、何だってするのかい?俺みたいな男に、君はもったいないよ」
キッと目を見開いた女の唇をしばらく見つめると、耳元に顔を寄せ、男は静かに囁いた。
「君の唇に塗られた口紅。またしても毒薬かい?そんなもの塗らなくったって、君の色気だけで、俺の心はすっかりヤラれてるよ」
女は諦めたような表情で、カウンターの木目に視線を落とした。
「わかったわ。私、スパイだってこと、認めるわ。今日ここに来たのも、あなたを抹殺するのが目的。残念ながら今夜、任務は完遂できないみたいね」
男は、目尻の皺だけを動かし、笑ってみせた。
「でもせっかくこうしてあなたにお目にかかれたんだし、話だけでもして帰りましょう」
「ああ、いいとも」

私には、女手ひとつで私を育ててくれた、S市役所に勤める母親がいるの。幼少の頃から反抗的な私を、しっかりと叱ってここまで立派に育ててくれた母親は、私の何より大切な存在。私の生きる目的でもあるわ。
いつかこの社会でのし上がって、母親を楽させてあげたい。母親の描く理想の未来をプレゼントしたい。そう思うからこそ、私はこの厳しい特殊機関の任務を全うできる。
母親への思慕の気持ちと任務に対する辛苦の気持ちを、自分の感情に乗せ綴りだした。可憐な身体を震わせて語る母親への思いは、ひどく男の心を打った。
男は、しんみりと言葉を受け取り、目尻にたまった涙を、そっと拭った。
「じゃあ、俺は先に失礼させてもらうよ」
「ええ、さようなら」
男はカウンターチェアから身をおろすと、マスターへ代金を手渡し、バーを後にした。
「男はほんとにこの手の話に弱いわ。私は母親のために、何があっても機関の任務を失敗するわけにはいかない。涙を拭いたおしぼりに毒薬を染ませておいたから、今ごろ、目の粘膜が毒を吸収して、即死ね。抹殺完了。さようなら」
女は勝ち誇ったようにひとり言をつぶやくと、甘いカクテルに飽きたのか、マスターにウイスキーのロックを注文した。

バーを出た男はゴシゴシと目をこすりながら、
「見え透いた罠を使う小娘だな。俺の目は特殊コンタクトで粘膜が覆われているから、毒なんて効きやしない」
男はスーツのポケットからスマートフォンを取り出すと、おもむろに電話をかけ始めた。
「もしもし、ああ、俺だ。特殊機関の女スパイの母親がS市役所に勤めている。ただちに人質として身柄拘束の手筈を」
男は何かを思い返すように口元をほころばせ、
「なぁに、母親はすぐに特定できるよ。思わずキスしたくなるような、魅力的な唇をしてるはずさ」