現実と夢と現実と

男は飲み干したビールの缶を、くたびれた手つきで握りつぶした。
金のない生活、女のいない生活、そして、未来の保証のない仕事。残された命を、ただ音もなく、削ぎ落としていくだけの毎日。
おろし器で野菜をすりおろすような日々は、あまりにも無意識で、姿を消した野菜に気づかず、空をつまむ指先を痛みも感じずにすりおろす。もう、くたびれた。

理髪店の待合席で偶然手にした週刊誌のコラムに、それは書かれていた。
『あなたが今現実に生きていると思っているこの時間、この空間、その全ては、実は、夢かも知れません』
男はそのフレーズを目にし、もし実際にそうだったとしたら、こんなくだらない夢、早く覚めてくれと、心の底から願った。
「でも、もしかしたら、ほんとに夢なのかも知れないな。夢じゃないって根拠はないし」
男はポツリと、ひとり、そう呟いた。

週刊誌のコラムを読んでからというもの、男はこの現実が夢であるかも知れないという、藁よりも脆い望みにすがるようになった。生きるということに対して、これまで以上に無頓着に、何の感動も興奮もすることなく、ますます惰性に生きた。わずかばかりの現実への未練も置き去りにするかのように。
「もしこの現実が夢だったら、もうどうなろうと構わないし、知ったこっちゃない」
そうして男は、仕事の上でも完全に信頼を失い、何もかもが破綻した生活を送っていた。
そうやって退廃的に日々を浪費していると、とうとう今の生活を取り巻く全て、人間関係から金銭面に至るまで、その全てが無残にも朽ち果ててしまった。

「こうなってしまったからには、もう、これが夢であることを信じるしかないな」
ヤケになった男は、例のコラムの内容を確かめてみようと思いつき、いっそ今の現実を終わらせてみることにした。
「もし夢じゃなかったとしても、どうせ死ぬだけだし、もうこの人生に何の未練もないや。それにもし、夢だったとしたら、それはそれは、こんなくだらない現実は全て夢でしたってな具合に、あっさりしたオチで終わるだろうし、そうなりゃ夢から覚めた新しい人生が俺を待ってるってことになる。こんなに胸躍る楽しいことは、ないぜ」

男は十七階建てのビルの屋上に立っていた。
鳥はいつもこんな清々しい風を感じて生きているんだな。普段はそんなこと考えもしないのに、ビルの屋上に立つという非現実的な行為が、男にそんなことを思わせた。
「ここから飛び降りたら、全て答えが出る」
そう言い残し、誰かに宛てた遺書を書くわけでも、ドラマでよく見かけるワンシーンのように、靴を綺麗に並べ揃えるわけでもなく、ただただ算数の穴埋め問題を解くかのように無機質に、ためらうことなく屋上の縁を蹴って、地上へと落っこちていった。

「ん?」
男は目覚めた。何の痛みもない。ましてや、死んでいるわけでもない。意識はハッキリとここにあり、今しがた「ん?」という言葉も発することができた。
「俺、生きてる」
ということは、あのくだらない人生は、やはり夢だったということになる。週刊誌のコラムと俺の勝ちだな。
そういえば、ここは今まで生活を送っていた古ぼけた部屋じゃない。ベッドも違う。部屋の壁紙も、カーテンも、何もかもが、今までとは全く違う。
「やっぱり、今まで現実と思っていた世界は、悪い夢だったんだ。俺は本来、もっと立派な人間で、恵まれた生活を送っているんだ。やったぞ!夢から覚めた!」
男は喜んだ。これまでの全てが夢だったことを実感し、興奮した。そして生まれ変わった人間として、新しく用意された『これから』を生きていこうと決意した。目に映る全てが、真新しく、キラキラ輝いて見えた。背後に感じる、ピストルの冷たさを除いては。

「長い夢を見てたようだな。悪い夢でも見てたのかい?ひどくうなされてたようだが。まぁそんなことはどうだっていい。今すぐ借金の返済をしてもらおうか。もう返済期限はすっかり過ぎているんだ」
ピストルの男は、低い声でそう伝えた。
「もし今日、全額返せないようだったら、お前には悪いが、死んでもらう。隣のビルの屋上から跳んでもらうことになる、いいな?」
ピストルの男は、唇の片側をクイッと持ち上げ、ニヤリと笑いながら、こう言った。
「これが夢ならよかったのになぁ」