魔法のガラス

寝ぼけ眼をこすりながら、気乗りのしない出勤途中の女性。そのビルの壁面のミラーガラスに映る自分を、通り過ぎながら眺め、ニッコリと微笑んだ。友だちができずに孤独な毎日を過ごす、登校中の男子学生。ガラスに映った自分の顔を眺め、それまで曇っていた表情を一変させ、ニッコリと微笑んだ。これといった楽しみも持たず、徘徊するように散歩している老人。ガラスに映る痩せ細った自分の顔をチラッと眺め、ニッコリと微笑んだ。

小皿に乗ったショートケーキみたいな三角の形をした三階建てのビル。その壁面はガラス張りになっていて、人通りの多い道沿いに佇むそのビルの傍らを、毎日多くの人たちが通り過ぎる。そして、誰もがそのミラーガラスに映った自分の表情を眺め、そして誰もがニッコリと微笑む。なぜならそのガラスには、ある特殊な魔法が備わっている。それは、見る者を元気にさせるという魔法。

そのことを知ってか知らずか、人はみんな、ガラスに映った自分を見て、元気をもらい、表情を明るくさせ通り過ぎて行く。
今日も変わらず、人はみんな、そのビルを通過する時、自分の姿をそこに認め、そして笑う。憂鬱な朝を抱える人たちにとっては、ビルを通過し、なぜだか理由は分からないが元気になれるその瞬間を楽しみにしていた。

誰かがガラスの持つ魔法に気づいてしまったのか、その噂は瞬く間に街中に広まり、これまで通行する人だけが、人知れず自分の不思議な感覚として捉えていたそのガラス。それが今では、まるで観光名所と言わんばかりに人が溢れかえってしまった。
我先に、我先にと、落ち込んだ心、沈んだ心、憂鬱な心を元気にしてもらおうと、寄って集ってガラスの前に押し寄せた。

「おいおい、押すなよ」
「あなた、後から来たくせに卑怯よ」
「お前、俺のほうがよっぽど気分が滅入っているんだから、先に前に行かせろよ」

ガラスの前に集まった人たちは、気を荒げ、押し合いへし合い。男も女も関係ない。そう、そこには、笑顔もなにもない。
やがて、押しくら饅頭のような状態になり、人がドミノ倒しのように倒れてしまい、前列にいた数人がガラスに激しくぶつかった。

バリン!

ガラスは大きな音をたてて割れてしまった。粉々に砕け散ったガラスの破片。集まった人たちは、落胆の表情で、散らばったガラスの破片を惜しそうに眺めた。

「ガラスがこっぱ微塵になっちゃったよ」

大きなガラスが見事に割れてしまい、ビルの一階の中が、開け広がり丸見えに。その部屋の中には、小さな子どもがひとり、ベッドに横たわっている。隣には、椅子に腰掛けた白髪の老人。

「みなさん」
老人が話し出した。

「坊ちゃんは、今割れてしまったガラス越しに、皆さんの笑顔を見ることで、幸せな気分をわけてもらっていたんですよ。病気で外に出ることもできず寝たきりの毎日。だから少しでも元気が出るように、皆さんの明るい表情を見て、坊ちゃんも楽しい気分になっていたんです」

不治の病を患っている子ども。現代医学では治療法もなく、ただベッドで横になり過ごすことしかできない毎日。ビルを通過する人たちが見せる笑顔は、実は、元気をもらっていたのではなく、逆に寝たきりの子どもに元気を与えていたのだという。
元気をもらおうと集まった人たちは、老人の話を聞き、とてもいたたまれない気持ちになり、ひとり、またひとりと静かにその場を去っていった。

小皿に乗ったショートケーキみたいな三角の形をした三階建てのビルの一階。そこは部屋の中が透けて見える透明のガラス張り。眺めても自分の姿は映らず、ただ部屋の中で眠る子どもの姿が見えるだけ。
今日もそのビルを通過する人たちは、ガラスを眺め、みんな笑顔。そう、ガラスの魔法になんて頼らなくても、もうみんな笑顔。魔法のガラスを眺めて笑顔をもらっていた人たちはみんな、今では、普通のガラスを眺めて、笑顔になっている。自分の顔を眺めてニッコリしているのではなく、元気を待つ子どもに向かって、今日もニッコリ、明るく微笑んでいる。