それはまるで魔法のように

少し早い梅雨が訪れ、傘が手放せなくなったある日のこと。変わらない日常が始まり、会社までの道のりを歩く。無数の傘の中から、人の波に逆らって歩いてくるひとつの傘を見つけた。その傘は男のそばまで来ると急に立ち止まり、手にした赤い傘を閉じた。
「あの……」
ふいに声をかけられ戸惑う。緊張と照れが入り混じった声は、男に告げた。
「付き合ってもらえませんか?」
あの薬品の効果がもう現れたのか!? 目の前に立つ美しい女性。男は信じがたい冗談に付き合うように「――ぜひ」と答えた。

「こんなところにこんな店……あったかなぁ」
休日だからといって、特別やることがあるわけじゃない。暇を埋めるように、男は自転車でブラブラしていた。
私鉄の高架下にポツンと一軒、見慣れない店を見つけた。それは、絵に描いたように古ぼけた雑貨屋。興味が向くまま、気づけば入り口の扉を開いていた。貝殻で作ったドアベルが心地良い音を奏で、狭い空間にビッシリと商品が敷き詰められた店内が覗く。
「いらっしゃい」
奥の暗がりから、しわがれた女の声が聞こえた。何も買わずに店をあとにするのは気がひけるなと思いながら、適当に商品を眺める。
「ん?」
男は思わず声をあげた。そこにあったのは、〈理想の恋が手に入る薬〉と書かれた薬瓶。手に取ろうとしたとき、奥から声の主――腰がひどく曲がった老婆が近づいてきた。
「彼女は?」やけに唐突な質問。
「彼女は――いませんけど」
「ならちょうどいい。それを飲むとアンタの理想の恋が手に入る。中東の辺りじゃ大昔から服用されてきた薬だよ。信じる信じないはアンタ次第だけど、よかったら」
まるで占い師のような老婆の語りに乗せられるまま、男は薬品を購入していた。

「どうして僕なんかと……?」
ある雨の朝、いきなりの告白を受けた男はその場で連絡先を交換し、その週末に初めてのデートを迎えた。
「どうしてって……」
無粋な男の質問をかわすように、彼女は喫茶店のガラス窓から外の景色を眺めていた。不器用な沈黙が流れる。
「僕のこと――まだ何も知りませんよね?」
「何も知らないままじゃ、人のこと、好きになっちゃダメでしょうか……」
彼女は気を悪くしただろうか。何を隠そう、男にとって目の前の女性が初めての彼女。30歳を目前にして、ようやく訪れた春だ。それだけにまだ半信半疑。美人局だったらどうしよう、騙されていたらどうしようと、次々に浮かぶ不安を拭えないでいた。
「今からお互いのこと、知って行きましょう」
彼女の笑顔がパッと咲いた。ウジウジしている自分が情けなくなり、「そうですね!」と明るく努めた。
「あの……お名前は?」
まだ名前も知らない恋人。こんな出会いも悪くない。たとえそれが、得体の知れない薬品のおかげだったとしても。

男にとって夢のような日々が続き、二人は晴れて夫婦となった。稼ぎが少ない男を、献身的な節約でしっかりと支える彼女。刺激的なことは少ないけれど、平穏を好む二人らしい生活が続いた。
ある日の昼下がり、トイレから自室に戻った男は、掃除中の彼女が例の薬瓶を手に取り、興味深そうに眺めていることに気づいた。
「ちょっとちょっと、何やってんの!?」
「理想の恋って――何?」
「なんでもないよ……瓶が気に入ったから、ずいぶん前に買って置いてあるだけだよ」
「瓶が気に入るって――普通の瓶なのに?」
「そういう趣味なんだよ」言いながら、彼女の手から優しく瓶を奪い取り、ペンが散らばる机の上に無造作に転がした。
変なの――と呟く彼女。特に気にする様子もなく、鼻歌を口ずさみながら、掃除へと戻った。

男はあの日、雑貨屋で買った薬品に心から感謝していた。あれを飲んだ次の日から、男の人生は輝き始めた――最愛の人と出会えたからだ。ただ、理想の恋が手に入る薬でも叶えられないもの、それは〈終わらない恋〉だ。
70歳を過ぎ、今じゃすっかり老け込んだ二人。そして、彼女は急な病に倒れた。残念ながら生きられるのはあとわずかだと、医師から告げられた。
「楽しかった思い出を、全部、話そうか」
ベッドで目を閉じ、男の話に耳を傾ける彼女。男は優しく彼女の手をさすっていた。
「聞き終わる前に、眠ってしまいますよ」
いつからか敬語を使うようになった彼女。出会った頃の二人に戻った気がして、男はその変化を好んでいた。
「じゃあ、最近の思い出から、順に話してくださいな」
これから始まる映画を楽しみに待つ少女のような笑顔を、彼女は浮かべた。
「最近の思い出といえばあれだな――昨日、君のために買ってきたリンゴの皮を剥こうとして、うっかり指を切っちゃったことだな。まさか看護師さんに応急処置してもらうなんて……あれには笑ったなぁ」
「いつまで経っても不器用ですからねぇ」思い出し笑いする二人。
ふと、彼女がいなくなったあとの生活を想像する。夢のような日々が終わってしまう寂しさと孤独感。男はこぼれそうになる涙をこらえるしかなかった。
「最初の思い出は、やっぱりあの雨の日だな。君がいきなり――」
「告白しちゃった日ですね」
思いつく限りの思い出を話した最後に、出会いの日の思い出を巡らせた。
「いつか君に話そうと思ってたことがあるんだ」
「なんでしょう?」
「僕は不思議な力を利用して君と出会ったんだ。ある薬品を飲むことで得られる魔法のようなものを使ってね」
「またおかしな冗談を――」
「冗談じゃないんだ」男はむきになった。
「君と出会う前の日、ある雑貨屋に立ち寄ったんだ。そこで見つけた〈理想の恋が手に入る薬〉って薬品を買ってだなぁ。それを飲んだわけだ。すると、君に出会えた」
「薬品って――いつか見た瓶のことですか?」
「そんなこともあったなぁ。まさに、あれだよ。あれのおかげで、こうして素晴らしい人生を君と歩めた」
それを聞くと彼女は、ベッドを小さく揺らしながら笑いはじめた。馬鹿げた話だと笑いたくなる気持ち、分からなくもない。ただこうして、二人が人生を共にしてきたことは確かだ。
笑い泣きの涙を目尻にためた彼女は、込み上げてくる笑いを抑えながら言った。
「あの瓶の裏面を、よく読んだことはありました?」
「裏面?」
「ええ。注意書きが書かれてあるところですよ。そこをよく読めば、そんな魔法がこの世にないということが分かりますから」
そんなものは読んだことがなかった。あの日、雑貨屋から帰ってすぐに薬品を一気飲みした以来、まじまじと瓶を眺めたことなどなかった。ただ、どうにも捨てられなくて、瓶を取っておいただけ。それにしても、あの苦くて甘い味は今でも思い出せる。
「裏面には何が書いてあるんだい? それに、もし薬に効果がなかったとしたら――君が僕を選ぶ理由なんてないじゃないか」
焦って問いかけてみたが、笑い疲れたのか、彼女は眠ってしまっていた。

家に帰ると、男は机の隅に置いてある薬瓶を手に取った。何が書かれてあるのか気になって仕方がなかった。
瓶の裏面に目を通す。それらしい注意書きが並ぶ末尾に書かれていた文字、〈これはジョークグッズです〉。
思わず笑みがこぼれた。薬には効果なんてなかったんだ。純粋に信じてきた自分が可愛らしく思えた。そして何より、ジョークグッズのネタばらしの下に彼女が手書きで書き入れたメッセージ。それを見た瞬間、こらえていた涙が一気に溢れ出した。
そこには、〈あなたを選んだ理由は――ひと目惚れです〉と、丸みを帯びた文字で書かれていた。

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