決着は10秒後に

スタブロに足をセットし、両手を地面につけながら全神経を集中する。かがんだ姿勢のまま視線を少し上げると、はるか遠くにゴールラインが見えた。たった100メートル先とは、とても思えないほどに果てしない。
この世界からすべての音が消えた。静けさが騒がしいくらいだ。俺は打ち鳴らされる号砲を待つ。さぁ、来るぞ。俺の負けられない戦いがはじまる。そして、アイツとの勝負はおよそ10秒後には決着する。両足に力を込め、蹴り出す準備は整った。心の中で「行くぞ」と叫んだとき、号砲が轟いた。俺の足は獣のように反応し、スタブロを蹴る。前傾姿勢をキープしたまま、身体が前方へと飛び出した。すべてはアイツに勝つために。

高校での陸上人生に悔いを残さないようにと、顧問が用意してくれた舞台。最後のインターハイ出場をかけた試合に、俺は体調を崩し参加できなかった。結果的にライバルの楠木がインターハイに出場。決勝まで勝ち上がり、見事に優勝を決めた。俺と楠木のタイムにはほぼ差がなく、勝つ日もあれば負ける日もある。そんな良きライバルだった。
顧問の計らいで開催されたこのエキジビションマッチは、そんな俺へのプレゼントでもあり、俺と楠木が決着をつける最大の見せ場でもあった。さすが陸上競技の強豪校。ギャラリーの数も多い。
スタートを切った俺は、大きく腕を振りながら、地面を蹴り上げ走る。エキジビションマッチだからか、大会で聞き慣れた緊迫した歓声とは違い、陽気な声が飛び交っているような気がした。
俺と楠木のライバル関係は、何も陸上だけに限った話じゃない。その因縁ははるか昔、幼稚園の頃からはじまった。
手先が器用だった楠木は、幼稚園でもその能力を遺憾なく発揮し、完全に周囲の気持ちを掴んだ。男子からは〈ボス〉や〈博士〉などと呼ばれ、女子の間では楠木のファンクラブができたほどだった。
俺も手先の器用さには自信があったし、当時の写真を見ると、ルックスだって悪くない。楠木がいなければ。そう、アイツさえいなければ、俺は幼稚園の中で目立つ存在になれたはず。しかし、アイツがそれを阻んだ。楠木が周囲から持てはやされるのを、幼いながらに妬んでいた。まったく持って苦い記憶だ。

打倒楠木を誓った最後のレース。これまでにないほど腕も振れているしスピードにも乗っている。ふと、隣のレーンに視線を移す。アイツの姿はまだない。なぜなら、楠木の強みは後半の加速だからだ。今のうちにできるだけ差を広げておかないと。再び視線を前方へと戻し、さらに力強く地面を蹴り上げた。
ふいに小学生の頃の記憶が蘇る。楠木の家にバレンタインチョコを持って行きたいから、住所を教えてくれとお願いされたり、代わりにラブレターを渡してくれと頼まれたりもした。もう一度言うが、俺のルックスは決して悪くない。むしろいいほうだ。自画自賛してるわけじゃなく、周囲からの評判も上々だったんだ。ただ、ライバルでもあり親友の楠木とつるんでいると、女子の中から──俺という存在──を選ぶ理由が消え失せた。楠木と俺を比較すれば、どうしても楠木に軍配が上がってしまうからだ。
女子から渡してくれと頼まれた楠木宛のチョコレートを、いくつ川に投げ捨てただろう。ラブレターを何枚ビリビリに引き裂いただろう。苦い過去を思い出していると、背中から神様が後押ししてくれているような感覚で、身体がさらに加速した。

楠木はまだ追い上げてこない。しかし油断は禁物だ。信じられないほどの加速で追い上げる楠木の勇姿を、過去に何度も目にしてきた。一流のアスリートは、「こんなに離されちゃ、もう勝ち目はないんじゃね?」と周囲に思わせておいて、奇跡のような勝利を収める。アイツもそんなタイプだ。そんな楠木から逃げるようにして俺は走った。
走りに集中すればいいものを、なぜか大学受験のことが頭をよぎった。楠木と俺は部活に全力を注いでいたし、勉強できる時間だって同じくらい限られていた。それなのに、アイツは一流の国立大学に合格。俺は──まぁ、そこそこの大学に、なんとか合格できた。なぜこれほどまでに差がついてしまうんだ。
そして、卒業を間近に控えたある日、決定的な出来事が起こった。
「カズマ? 今、ちょっと会えない?」
それは七瀬からの急な電話だった。すっかり夜も更けて、睡魔に負けそうになっていたとき、七瀬から公園に呼び出された。俺は中学の頃から七瀬のことが好きだった。ただ、それをずっと伝えられないまま、無情にも時間だけが過ぎて行った。俺と楠木と七瀬は幼馴染で仲が良かったから、恋愛感情をさらけ出してしまうと、何かが壊れてしまうような気がしたからだ。
そんな中、七瀬からの急な電話。いつもよりトーンの落ちた七瀬の声に──もしかして、七瀬から告白されるんじゃ──と、期待に胸が膨らんだ。人の気配がまったくない深夜の公園のベンチに、俺と七瀬は腰掛けた。
「大学行ったら、みんなバラバラだね」
「そうだな。幼稚園から続いた腐れ縁も、ここで終わりだな」
「また遊んだりするかなぁ?」
「そりゃ遊ぶっしょ。別の大学に行ったからって、仲が悪くなるわけでもないし。自然に集まって、これまでと変わらない感じが続くんじゃね?」
「そうかなぁ──」
七瀬は夜空を見上げる。俺はその横顔を覗く。すると、大きな瞳から涙の雫がこぼれ落ちた。月明かりは、七瀬の涙を宝石のように輝かせた。
「ワタシ、楠木のことが、ずっと好きだったんだ。告白してもいいかな?」
七瀬自身も俺と同じく、幼馴染の関係を壊さないよう、気持ちに蓋をして生きてきたんだな。とめどなく流れる涙が、それを物語っている。やっぱり楠木が選ばれるのか──宿命のような結末に虚しさが押し寄せ、苦笑いするのが精一杯だった。
「後悔しないように、七瀬の気持ちを伝えろよ。俺は七瀬のこと、応援してるからさ!」
七瀬は小さく頷いたあと、今までに見たこともないほど激しく泣いた。ほんとは俺も泣きたかったけど、二人で泣くのはなんだか違う気がして、必死で涙をこらえた。

あの夜のことを思い出した俺の身体は、さらに加速を増した。この走りができていれば、インターハイでもきっと優勝できただろうな。さぁ、楠木よ。得意の加速を見せてみろ。
視線を再び隣のレーンに移すも、楠木の姿はない。あまりにもおかしすぎる。ゴールラインは迫ってるんだぞ。楠木が真横にいないなんておかし過ぎる。
ふと頭が冷静になり、違和感の正体に気づきはじめた。すると、ギャラリーたちの笑い声の意味が理解できた。もしかして!?
予想は的中。背後を振り返ってみると、楠木はスタート地点に立ったまま、ウォーミングアップを続けている。
「えぇ!? フライング!?」
叫びながら、俺は地面に突っ伏した。もうダメだ。今の走りですべての力を使い果たしてしまった。仕切り直したとしても、楠木には絶対に勝てない。ギャラリーの笑い声の中には、落胆する声も混じっていた。
再びスタート地点に立つも、緊張の糸は既に切れていた。号砲への反応も遅れ、スタブロを蹴る足にもうまく力が入らなかった。楠木の姿はみるみる遠ざかり、完膚なきまでに叩きのめされた。こうして俺と楠木の戦いは、あっけなく幕を閉じた。

肩を落としたまま、校門を出る。するとそこに七瀬が立っていた。
「相変わらずバカだねぇぇ。せっかく応援してあげてたのに」
言い返す言葉もない。
「やっぱ俺、何やっても楠木には勝てないわ」苦笑しながら言った。
「カズマが楠木に勝てるわけないじゃん!」
「うっせぇ。バカッ」
それから二人は無言で歩いた。そんな時間をはじめて気まずく感じた。ただ、俺にはどうしても確かめなきゃならないことがある。覚悟を決め、七瀬に声をかけた。
「告白──うまくいった?」
「告白? なんの?」
「なんのって──楠木に思いをぶつけるって言ってた、アレだよ」
「あぁ、あれねぇ。おもしろいこと教えてあげよっか?」
七瀬は口でドラムロールの真似をしながら、小刻みなジェスチャーを繰り返した。
「実はねぇ。ほんとはあの日、楠木にフラれたあとに、カズマに相談しに行ったんだ」
この世界からすべての音が消えた。オレンジなのかピンクなのか区別のつかない夕焼けに染められたまま、七瀬の言葉が号砲のように、俺の心を撃ち抜いた。すべてを吹っ切ったように笑いながら俺を見つめる七瀬は、間違いなくこの世で一番かわいかった。
「あの日、真剣に話聞いてくれて、応援までしてくれて、ほんとにありがとう。すごく嬉しかったよッ!」
「せっかくなら、七瀬と楠木がうまくいけばいいなぁ──って思ったからさぁ」
嘘をつくな俺。俺もほんとの気持ちを七瀬に伝えろ。後悔するぞ。それでいいのか?
「カズマってさぁ、いっつも楠木のこと意識してるよね。俺は楠木に負けてるって」
「あぁ」
「劣等感?」
「──かな」
「でも、カズマは一等賞だよ」
「え?」
「ワタシにとってかけがえのない、最高の友だち。キミに金メダルを差し上げようッ!」
七瀬は両手で大きな輪をつくりながら、俺の首にお手製のメダルをかけようとしてきた。七瀬の瞳が俺のすぐ目の前にある。ずっとずっと好きだった七瀬。俺はきっと、これからもずっとずっとお前のことが大好きだ。
「もし──俺が、七瀬のこと、好きって言ったらどうする?」
七瀬の動きがピタッと止まった。俺は本音を漏らしたことを後悔した。楠木にフラれて失意の七瀬に、自分の身勝手な本音をぶつけるなんて。またしても俺のスタートはフライングだ。
「って、冗談に決まってるだろ。マジになるなよ。バーカ!」
七瀬の表情が緩んだ。それを見て少し安心したけれど、やっぱり悲しかった。
「久しぶりに楠木と三人でカラオケでも行かね?」
「いいねぇ。行こ行こッ!」
友だちとしては金メダルをもらえた。ただ、友だちなんてただの予選だ。俺はインターハイに出場して優勝を目指す。負けられない戦いはまだまだ続く。
はしゃぎながら走り出した七瀬の後ろ姿を追うように、俺の足も力強く地面を蹴り上げた。

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