ある日、突然シロに

目が覚めたら、シロになっていた。
飼い主の美里は俺の頭を撫でながら、「じゃあ、行ってくるねッ!」と言い残し、マンションの部屋を後にした。って、何で俺がシロに!?

なぜこうなってしまったのか。理由はわからないが、姿見に映った俺はシロになっていた。美里が仕事に出かけたあとの部屋。声帯模写するように、小さく吠えてみた。うん、真似る必要はない。紛れもなく、犬だ……。
いつもと違って見える部屋の景色。犬の目線で見ると、この部屋もけっこう広く感じるなぁ。窓もベッドもテーブルも、とても大きく感じる。感心しながら眺めていると、口からダラリとヨダレ。生まれ変わった気分に浸りながら、部屋の中をウロウロと歩き回ってみた。
いつもと違って見える部屋──なんて言ったのは何を隠そう、俺は美里の彼氏だからだ。正確には、彼氏だったからだ。もちろん、こうしてシロになる前。矢吹ケイとして、美里と付き合っていた。もちろん二人は今も付き合っている。二人は──いやいや、なんで俺が俺自身を他人事のように語ってるんだ──俺たちは同じ職場で働いているから、今日だってきっと一緒にこの部屋に帰ってくるはず。
とりあえずテレビでも見ながら時間を過ごそう。肉球のせいで悪戦苦闘しながら、なんとかリモコンの電源スイッチが押せた。朝の情報番組が流れ、画面にはペット特集。犬が夢中になって、テレビに映るペットたちを観てる。そう思うとなんだか笑えてきて、一度だけ、また小さく吠えてみた。

「ただいまッ」
玄関から美里の声。後を追うように矢吹ケイの声。ほら、二人が帰ってきた。矢吹ケイ本人である俺がシロとしてここにいるということは、矢吹ケイの存在が消えてしまったのでは、と心配していた。しかし、自信なさげで貧弱な男、矢吹ケイはしっかりとそこに存在した。
「ケイ君、お腹すいてるでしょ? すぐにごはん用意するねッ」
「あっ、うん」
相変わらず煮え切らない性格だな。自分で自分が嫌になる。矢吹ケイの身体から飛び出し、客観的に自分を見てみると改めて思う。男という生き物は、豊かな包容力で恋人を包み込んであげるべきだ。
「何か手伝おっか?」
「いいよ。ケイ君はシロと遊んであげてて」
美里はほんとに優しいな。ヨダレを垂らしながらウットリと美里を眺めていると、矢吹ケイがそばにやってきて、俺の腹を撫でた。
二人のことを客観視していたけれど、冷静になって考えてみよう。俺は犬になってしまっていて、今や美里と矢吹ケイの飼うペット。どう受け止めればいいんだ? いつか俺は、矢吹ケイに戻れるのか?
「シロ。シーロ。シロー。シロッ」
俺が俺の名を連呼する。もっとマシな遊びはできないものか。情けない。
ただ、シロである俺はヤツを貶してばかりいるが、矢吹ケイを誰よりも知る俺は──そりゃ本人なんだから──ヤツの気持ちを代弁したくもなる。
人生で初めて付き合えた彼女が美里だし、美里は周囲が羨むほどにキレイだった。何の取り柄もない俺みたいな男と、なぜ付き合ってくれたのか不思議に思ったし、同時に劣等感も芽生えはじめた。そして、その劣等感はやがて、あらゆる自信を奪っていった。余計なことをして捨てられるくらいなら、何もせず、ただ美里の優しさに甘えていよう。そう考えたのも、必死に悩んだ末の答えだったから。
二人は食事を終えた後、俺を連れて散歩に出かけた。
「いつか結婚して子どもができたら、シロに見せてあげたいんだ」美里は月を眺めながら言った。
「それまでシロ、生きてるかなぁ」
「もうッ! 身も蓋もないこと言わないでよね……」
「ごめん」
と、その時だった。公園の植え込みから、大柄な男が飛び出してきた。
「金を出せ」男はドスのきいた声で要求する。
美里は恐怖で目に涙を浮かべている。俺は? いや、矢吹ケイは? 同じく涙目になりながら、足をガクガクと震わせている。しかも、気づかれないようにジリジリと移動しながら、美里の背後に隠れようとしてる。俺は自分の不甲斐なさに落胆した。なんて頼りない男なんだ。
矢吹ケイに任せるのは無駄だと判断した俺は、犬特有の唸るような声をあげながら男を威嚇。相手が怯んだ隙に、足に噛み付いた。痛みで悲鳴をあげる男。さらに力を込めると、男は足を振り回しながら倒れ込んだ。唸り声を発し続けていると、男は諦めたのか、足を引きずりながら逃げ去った。
「シロッ、ありがとう!」
美里が俺を抱きしめる。
「ケイ君も大丈夫だった?」
しゃがんで俺の頭を撫でる美里の視線が、棒立ちのままの役立たずを見上げる。矢吹ケイってヤツは、ほんとに情けない男だ。

あれから数年の月日が流れた。シロである俺は、まもなくその生涯を終える。まるで誰かの命を肩代わりするかのように、急な病に襲われた。自分でも死期をハッキリと感じる。
思い返せば、最初は人間から犬になってしまったことで不自由さを感じもしたが、やがて犬の生活にも慣れた。何より飼い主の美里に優しくしてもらえる日々は幸せだった。
シロになる前の俺──矢吹ケイはと言うと、かなり前に美里と別れた。最低の別れ方だったな。美里に対して劣等感を抱き続け、最終的にはその優しさを台無しにした。何の罪もない美里が涙して謝るのを尻目に、一方的に別れを告げた。俺はヤツを噛み殺してやろうかと思った。泣き続ける美里の隣にいるのは、あまりにも辛かった。そして今、美里は俺の名を連呼しながら、こうして泣き続けている。瞼を開く力すらなくなった俺の頭を撫でながら。
「シロにも生まれてくる赤ちゃん、見せてあげたかった──」
「そうだね」
矢吹ケイと別れてから数年後、美里はある男性と恋に落ち、月並みな恋愛をしたあとで結婚した。今、こうして美里のそばに寄り添っている旦那さんだ。包容力のある男性で、自分で言うのもおかしな話だけど、ヤツとは大違いだった。
美里が新しい恋愛に踏み切ると知ったときは、嫉妬に狂った。美里を困らせ、邪魔をしようともした。でも、旦那さんを心から愛する美里を見ていると、そんな感情も薄れていったし、お腹の中で新しい命が育つことに喜ぶ美里のそばにいると、こっちまで幸せな気持ちになった。
なんて言いながらも、俺は元々、矢吹ケイだ。ヤツと美里と俺の三人で暮らした日々が何より楽しかった。できることなら、あの時間に戻りたいよ。
「シロ──今までありがとう」
美里の声が遠くで響く。どうやらもう、美里のそばにはいないみたいだ。このままどこへ向かうのだろう。俺はどうなってしまうのだろう。

目が覚めると、そこには白い天井。白いシーツ。そして、白い壁。病院の患者衣を着ているところを見ると、どうやら入院しているようだ。なんで入院なんかしてるんだろ。
「先生! 矢吹さんが目を覚まされましたよ!」
ベッドの脇に立っていた看護師のおばちゃんが叫んだ。聞くところによると、ある手術を受けた直後から俺は眠り続け、何週間も目を覚まさなかったらしい。成功確率の高くない手術だっただけに、医師も看護師も焦り続けていたそうだ。
数日が経ち、気分転換に病院内を散歩することを許された。ここはかなり大きな大学病院。広い施設内を散歩しているだけで気晴らしになった。
患者たちの様子を眺めながら歩いていると、前から妊婦さんが歩いてくるのが見えた。
「あっ。美里──さん?」
「ケイ君!?」
付き合っていた頃のことが、脳裏に蘇る。不甲斐ない俺に、いつも優しく接してくれた美里。そんな優しさに甘えてばかりだった未熟な俺。そして、俺に同情するような目で見つめてくるシロ。思い出の全てが懐かしい。
「久しぶりだね」美里が言う。
「うん。元気だった?」
「元気だったよ」
妊娠しているってことは、今はもう誰かのものになっていて、幸せな家庭を築いているってことか。なんだか悔しいな。でも、今なら美里の幸せを心から願える。もう、あの頃みたいに不甲斐ない俺じゃない。
「無事に赤ちゃん、生まれるといいね」
「ありがとッ」
「美里──お幸せに」
「ケイ君もね」
美里の柔らかい笑顔は、あの日のままだ。俺は俺で前に進まなきゃ。
軽く手を振り、二人はお互い別々の道を行く。ふと振り返り、美里の背中に問いかけた。
「シロは元気?」
振り返る美里の柔らかい髪が揺れた。
「天国で元気にしてるよッ」

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