アナザーワールド

それは、ある日の通勤途中。人混みにもまれながら会社に向かっていると、追い抜きざまに誰かが僕に肩をぶつけてきました。その男は振り返ると、不敵な笑みを浮かべたのです。何よりその顔は僕にそっくりでした。いや、顔がそっくりなのではなく、それは紛れもなく僕でした。その日、僕は、僕に出会ったのです。

「おはようございます」
ビルの守衛さんにいつも通り挨拶をすると、なぜか怪訝な顔。理由は特に見当たらず、首を傾げながらオフィスのドアを開ける。いつもと変わらぬオフィスの光景。その中でただひとつ目に飛び込んできた違和感。なぜか僕の席に僕が座っていた。
「あの、ちょっと、どちらさまでしょうか?」
「田中ですけど──」僕は答える。
「田中はもう既に出社しておりまして」
事務の木下さんが戸惑いながら僕の入室を制する。その顔にはさっきの守衛さんと同じく、怪訝な表情が浮かぶ。そりゃ戸惑うだろう。木下さんにとっていつも見慣れた僕のこの顔。でも、一番怪訝な顔をしたいのは僕自身だ。だって、オフィスの中に別の僕がいるんだから。
「木下さん! 僕ですよ、田中ですよ!」
「田中くん──に、確かにそっくりなんだけどねぇ。でも、田中くんはもう来ちゃってるから」
その後、田中さんは事務所の奥に引っ込み、部長たちを連れてきた。やはり部長たちも怪訝な顔をしながら僕に話しかけてきた。最初は丁寧に対応してくれていたけれど、僕が彼らの要求に従わないとわかると、態度を荒げはじめた。ついには強引に僕をビルの外へと追い出した。守衛さんはさっきと同じように、怪訝な表情でそれを見つめていた。

そのまま真っ直ぐ家に帰るわけにもいかず、ショッピングモールや繁華街を行ったり来たりして時間をつぶした。すっかり日も暮れたあとに帰宅。玄関のドアを開けた瞬間、最悪の状況を察知した。土間には僕が履いている靴と同じものが脱いであった。
玄関の物音に気づいたのか、廊下の先にあるダイニングから、妻の美沙が顔を覗かせた。見慣れているはずの僕の顔を見た瞬間、妻の顔から一気に血の気が引き、悲鳴を上げながら後退った。
「おいっ! 美沙っ!」
乱雑に靴を脱ぎ捨て、逃げる妻を追うように廊下を走る。ダイニングのドアを開けると、昼間にオフィスで見た僕がそこにいた。テーブルに並べられた妻の料理。瓶ビールにグラス。そして、テレビのリモコン。極度の興奮に肩で息をする僕のことを一瞥したその目は、薄っすらと笑っていた。その隣には、怯えながらスマートフォンで警察へ電話している妻がいた。
ここにいてはマズい。そう感じた僕は、慌ててダイニングを飛び出し、自宅を後にした。ひたすらに夜道を走る。まるで自分が逃亡犯のように思え、悔しくて涙がこぼれた。

妻なら理解してくれるはずだ。所詮、奴は僕のニセモノ。冷静に説明すれば気づいてくれる。そんな期待を胸に、僕は再び自宅へ戻ることを決意した。夜も更けているため、妻はもう眠っているかもしれない。でも、そんなこと気にしちゃいられない。一秒でも早くこの問題を解決しないと、明日からも生きていけない。
正面玄関にはドアガードがついているため、鍵を持っていたとしても入れない。ただ、勝手口なら手持ちの鍵で家に入れる。そう思い、家の裏手に回る。物音をたてないよう鍵を開け、家に忍び込む。家の主がなぜこんな無様な真似を──と思ったが、今は仕方がない。
一階はすっかり電気が消え、人の気配がなかった。僕は足を忍ばせながら階段を上る。寝室で物音がした。自分の家の自分の寝室に向かうだけなのに、なぜこれほどまでに緊張し、罪悪感を抱くのか。理不尽な状況に腹すら立った。もう気を使うのはやめだ。自分に言い聞かせるように、寝室のドアを開けた。
そこで見た光景は、僕に殺意を抱かせた。裸になった僕が、裸になった妻の上に覆いかぶさり、行為に耽っていた。男女にとって美しい行為であるそれは、この世で最も汚辱の行為として僕の心を突き刺した。
身体を弾ませ続ける僕。それに呼応するように声をあげる妻。快楽に溺れる二人は、僕という不審者の侵入にすら気づかない。僕は振り向き、寝室をあとにすると、無心で階段を駆け下りた。真っ暗闇のキッチンの中から手探りで包丁を見つけ出し、それを握りしめた。視界を奪われていたため、刃先を思いっきり握ってしまった。手のひらに激痛が走る。しかし、それは脳にも心にも伝わらない。包丁を持ちかえ、殺人鬼のように階段をかけ上がる。狂気の雄叫びをあげながら、灯りと喘ぎ声が漏れる寝室を目指して。
怒声に気づいた彼らは、ベッドの上で身体を起こし抱き合っていた。妻は震えている。妻に寄り添う僕は、相変わらず僕を嘲笑するような安っぽい笑みを浮かべている。
「殺してやる!」
僕は僕の眉間の辺りに包丁を突き刺した。深く深く突き刺さる感覚。血しぶきが僕の顔を打つ。間接照明が照らし出す純白のシーツには、大量の血。顔面から溢れ出る血が、どんどんと白を紅で染めて行く。
眉間に刺さった包丁を抜き、何度もそれを突き立てた。隣で泣き叫ぶ妻へと視線を向け、「僕だよ。本当の僕は、この僕だよ。しっかりと顔を見てくれよ。これが本当の僕だよ」と連呼した。僕が連呼するたびに妻の表情は歪み、ついには両手で目を覆った。しかし僕はそれを許さず、僕の顔を直視するよう、血でヌメった手で妻の手を顔から引き剥がした。
「私の愛する人を返して!」
妻は喉がちぎれるような声で絶叫した。僕はそんな妻が愛おしくなり、妻を抱きしめた。妻を破壊するほど力を込めて。腕の中で徐々に力を失う妻。ようやく僕は、すべてを取り戻せた。

僕はそっと目を開ける。そこは真っ白な空間。目の前には真っ白な白衣を来た医師。彼は僕に言った。
「自分との戦いに終止符は打てたかい?」
そうだ。僕は精神的な病を治療するために、ある特殊な実験を受けていたんだった。
「これで君の心の中に巣食う、別の君の存在は消滅した──はずだ」
はずだ? どういうことだ? 実験は成功したはずじゃ?
「この実験はまだテスト段階なんだ。セオリー通りに実験は終了したけれど、その後の君の精神状態を保障するものじゃない。ともかく実験は無事終了した──ということだけ伝えておくよ」
なんて無責任な。でも、僕は実験の中で間違いなく僕を殺した。僕を滅ぼしたときの感覚。それは今もリアルに手の中にある。僕は僕として生きて行く。本物の僕らしく、胸を張って。

病院の無機質なビル。エントランスを抜け外に出ると、風が心地よかった。目の前に広がる新しい世界に期待を寄せ深呼吸。「さぁ」と口に出し歩きはじめると、そこには異様な世界が広がっていた。
「すべての人間が、僕に変わってる──」

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