糸と地球

「ブドウの軸って、糸という漢字に似てます」

彼女の日本語はとても流暢だ。インドネシアから日本に来てまだ一年も経っていないという。母国語はもちろん、英語も話せて日本語も簡単なコミュニケーションなら苦労しない。その勤勉さには目を見張るものがある。
「もう英会話には慣れましたか?」
繁華街の一角にあるファミリーレストラン。僕は彼女の英語の個人レッスンを受けている。
「英語は難しいよ──」
「日本語に比べたら、カンタン!」
彼女の優しい手引きに、僕の英語は目に見えて上達した。英語を学ぶことが目的には違いない。ただそれ以上に、僕の上達を喜んでくれる彼女の優しさに何度も触れたかった。

彼女は日本食レストランでアルバイトし、悪くない給料をもらっているそうだ。
プライベートに踏み込むのは気が引けたが、どうしても彼女の日常を覗いてみたくて、僕は同僚とその日本食レストランを訪れた。
着物を身にまとった彼女の雰囲気はいつもと違った。目鼻立ちが整った彼女の顔。二部式の着物が少しあどけなさを感じさせた。
そんな彼女の魅力を打ち砕くように、僕はとても汚い世界を目の当たりにする。それは、フロアで働く日本人たちが、彼女に差別的な接し方をしていること。酔客たちが彼女のぎこちないイントネーションの接客に憤怒する場面。怒りがこみ上げた。僕自身、酔いが回っていたこともあり、薄汚い日本人たちを殴りに行こうかとも思ったが、逆に彼女を悲しませてしまいそうで思い留まった。
──これが現実か……。
母国を恨む気持ちを抱え、店を後にした。

ある日のレッスンが終わった夜、僕は思い切って彼女に告白した。自分が彼女に好意を寄せていることを。
彼女とはいつか会えなくなる──そんな焦りから、僕は強引に彼女をホテルに誘った。明らかに歪んだ僕の主張に、彼女は遠慮しながらもその手を差し出した。
彼女のしなやかな肢体がホテルの安い照明に照らされる。衣服を脱ぎ捨てはしたけれど、結局二人が重なることはなかった。ただ、彼女の身体には無数のアザがあった。それはあまりにも痛々しく、普段の彼女の笑顔とは似つかわしくないグロテスクさを放っていた。
そのアザが彼女に訪日を決意させたのか、それが日本で作られたものなのか、僕にはわからない。彼女のことが好きなのに、彼女のことを何も知らない自分が情けなく、それを遠回しに尋ねる語学力すら持ち合わせていないことが悔しかった。

二人で天井を見上げる。そこにはデフォルメされた動物たちの線画が描かれている。何もかもが安っぽいこの空間が心地よかった。
「日本に来てはじめに食べた果物がブドウでした」
僕は黙って彼女の言葉に耳を傾ける。
「すべての実を食べたあと、ブドウの軸を見たときに、糸という漢字に似ているなって思いました」
そうかな──と思ったけれど、肯定も否定もせずに頷く。
「糸って、離れていてもつながっているようで素敵ですね」
いつしか二人は眠りに落ちた。どこまでも孤独を感じさせる浅い眠りの果てに、終わりを告げるような朝が訪れた。

『東京に行くことになりました。今までありがとうございました』
そんなメッセージを最後に、彼女と連絡が取れなくなった。
最後に受けたレッスンの日、彼女はもうこの街には居られそうにないとこぼしていた。日本に住む外国人だからこその理由があったようだ。彼女はそれを英語で説明してくれたけれど、僕には聞き取れなかった。自分の英語力の貧しさを恨むのは何度目だったろう。
彼女と連絡が取れなくなってから半年近くが経ったとき、一通のメッセージが届いた。
『ブドウの軸は糸で、ブドウの実は地球みたい。糸につながれたたくさんの世界がありますね』
彼女とレッスンを受けていたファミリーレストランにひとり。アイスコーヒーをすすりながら、あの日々を回想する。
インターネットで誰とでも知り合える今の時代。でも、心から大切に思う人との再会は叶えられない気がする。
レストランの入り口が開き来客を告げるベルが鳴る。ドアから吹き込む風。遅刻癖があった彼女。僕は思わず振り返る。
君の世界は今どこに?
実を食べきったあとのブドウを思い描いた。

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