ひんやりとした嘘

あれは先月のお盆休みのことでした。
姉の夫婦はお互い多忙で旅行の計画がたてられず、気づけばお盆休みに差しかかろうとしていたそうです。
二人は結婚二年目の夫婦。仕事の都合もあり、豪華な新婚旅行などには行けず仕舞い。夫婦水入らずのんびり過ごす機会も少なそうでした。
せっかくの夏季休暇なのにどこにも出かけないのは味気ないからと、行きあたりばったりで旅館を予約したと聞きました。
さすがに休み前ということもあって、どこの旅館も予約でいっぱい。いくら探しても見つからず、唯一予約が取れたのがあの旅館、〈冷月館〉だったそうです。
それが恐怖への入り口とは知らずに。

「ねぇねぇ、ほんとにこの旅館、大丈夫かなぁ?」
旅行予約サイトで旅館の情報を調べながら、夫に不安を訴える。
「仕方ないだろ。そこしか予約できなかったんだから。それとも、旅行、やめとくか?」
テレビの討論番組に夢中の夫はうわの空。
旅館の口コミ情報をチェックしていると、イヤな投稿を見つけてしまった。

『旅館そのものは老舗って感じで満足だったのですが、就寝中に気になることがありました。寝ている間に、一瞬、ひんやりする感じがして。そのあと、見ちゃったんです。お化けを……。気になったのはそれくらいですね笑。とても満足な旅行になりました。ありがとうございました!』

怪奇現象に遭遇しているのに、なぜこれほど飄々としていられるのか。口コミ投稿者の楽天的な性格を勝手に想像し失笑した。
その投稿以外に、怪奇現象に触れたものはなかった。

「なんか薄気味悪いね……」
「まぁな」
古びた外観。老舗のそれとは明らかに趣が違っている。そして、外観の古さがマシだと思えるほどに朽ち果てた館内。部屋に案内してくれる客室係や廊下をすれ違うスタッフもどこか陰気な印象。廊下の床は踏みしめても木材らしい乾いた音は響かず、館内にはカビ臭いにおいが充満していた。
「俺は温泉があれば問題ないよ。お風呂大好きだからね」
男の人はみんな、こういうことに無頓着なのだろうか。旅館に着いてからも客室に案内されてからも、夫の様子は何ひとつ変わらない。
そんな夫とは対照的に、ソワソワしっぱなしの私。予約サイトのあの口コミが、私の中のイヤな予感をざわつかせた。

畳の上に敷かれた布団。早く眠りにつきたくて瞼を強く閉じるけれど、口コミの怪奇現象が気になって寝つけない。ラップ現象が起きるたびに寝返りを繰り返す。
眠りとの戦いに疲れはじめたその時、背筋にひんやりとした悪寒が走った。気づけば金縛りにあっていた。
身体を動かそうとしても、ビクともしない。四肢が釘で打ちつけられているようだ。全身が石のように固く、氷のように冷たい。それなのに、冷や汗だけがとめどなく流れる。
ついには呼吸することすら困難になった。誰かに両手で締めつけられているような首への強い圧迫感。こめかみの痛み、後頭部の鈍痛、大量の冷や汗。隣で眠る夫を起こそうにも、声がでない。
薄れゆく意識の中で、微かに目を開けることができた。霞む視界の中には、夫の姿はなかった。

「お姉ちゃん、大変だったね」
あの後、私は意識を失い病院に運ばれた。
死をも覚悟した金縛りの中、意識の片隅で電話の着信音が聞こえた。妹が偶然電話をかけたそうだ。着信を知らせる機械音が追い払うように、金縛りは解けていった。あのまま息ができない状態が続いていたら、私はきっと死んでいただろう。それを思うとゾッとする。
「なんか変な旅館だと思ってたんだよ。やっぱり自分の第六感は信じなくちゃね」
病院のベッドに横たわる私を心配そうに見つめる妹。病室内を軽く見回したあと、私の耳元に口を寄せた。
「あのさぁ。義兄さんのことなんだけど──」

初婚の私に対し、2度目の結婚の夫。前妻のことを詮索するのは野暮だと思いつつも、そこはやはり気になるもの。しかし、前妻の話になると夫は激昂した。それほど過去の話に触れられたくないのだろうか。その怒りっぷりは異常だった。
隠さなければならない事情でもあるのかと勘繰った私は、時間に余裕のある妹に夫の身元調査を頼んだ。
「どうやら前の奥さん、謎の死を遂げてるみたいなんだ──」
「えっ!?」
思わず声が上ずった。昨夜、締めつけられた首がズキズキと痛む。
「誰かに絞殺されたみたいなんだけど、犯人は見つかってないみたい。そのとき義兄さんは家にいなかったそうで、アリバイもちゃんと立証されたんだって。だから、犯人不在のまま迷宮入りの事件になってるらしい」
夫から漂うどこか猟奇的な雰囲気。明らかに人と違った感覚。些細なすれ違いから口論になったときに、時折見せる冷たい視線。違和感を覚えたそれらすべてが、妹の報告とつながった気がした。
「言いたくないんだけどさぁ──」
妹はさらに声をひそめる。
「今回の件だって──」
「わかってる」
言葉を遮るように、固く目をつむった。

消灯時間になり、病室の電気が消された。暗闇の中の天井を見上げながら、今回の件をどうやって夫に確かめようかと頭を悩ませる。
さすがに心身ともに疲れ切っていたのか、張り詰めた神経とは裏腹に、眠りが迫ってきた。浅い眠りの中をさまよっていると、背筋に再びあの悪寒を感じた。
ひんやり。そして、金縛り。恐怖心が一気に蘇る。
全身が硬直し、息苦しくなる。叫び声をあげようにも、首が締めつけられていて声がでない。旅館のときとまったく同じ状態だ。
遠ざかる意識の中、残された力を振り絞り、なんとか瞼を開けることができた。
そこには、氷のように冷たい目をした女の姿。怨念にまみれたその表情は、私を恐怖のどん底に突き落とした。
私の視線に気づくと、女は首をさらに強く締めてきた。馬乗りになる女の顔が耳元に寄せられ、冷たい息とともに言葉が放たれた。
「あなたが私の夫を奪ったの」
そうか。夫のあの言葉は嘘だったんだ。妻とは既に離婚した。だから君と付き合える。そんな夫のセリフ。女の殺気は、夫の嘘を気づかせるのに充分な迫力があった。
ただ、目の前の女には申し訳ないけれど、今の彼は私の夫。誰に何を言われようが、私が愛した男だ。彼は嘘をついていたのかもしれない。でも、結果的に私と一緒になってくれた。今じゃどうだっていい話だ。
そういえば旅館で金縛りに遭っていたときから、夫の姿を見ていない。病室にも姿を見せていない。夫に会いたくてたまらない。
声にならない声を吐き出す。
「──彼はどこ?」
すると女が再び顔を近づけ、ひんやりした息を吹きかけた。
「彼の最大の嘘を教えてあげましょう。それは──彼の結婚はこれが3度目だということ。わかる? 私は彼の最初の女に殺されたのよ。略奪愛の末にね」
もう声を振り絞る体力も残っていない。身動きを取ることもできない。死がすぐそこに迫る恐怖が脳内で激しく暴れだした。
消えゆく意識。耳元に再び冷気。女の冷笑する声。そして、最後の言葉。
「さぁ、私と同じように、ここで謎の死を遂げなさい!」

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