麒麟

「動物園で唯一、嫌いな動物がキリンやねん」
これまでの人生で何度も吐き捨てたセリフ。すべてはアイツのせいだ。この世で俺が唯一、嫌いな人間。俺の親父。

「おう。えらい背、大きなったなあ」
雑踏の中から押し出されるように現れた親父。俺は足元に視線を落としたまま、しばらく無言で立ち尽くした。
「どうしてん? 機嫌悪いんか?」
二十年も俺たち家族を放ったらかしにした男の態度か? 親父の飄々とした態度に怒りが込み上げた。力任せに下唇を噛み、それを沈める。なぜ親父が突然、俺を呼び出したのか。その理由が知りたかったからだ。
「赤提灯でええか?」
「ええよ」

駅前に二軒しかない居酒屋のうちのひとつ。親父と並んでカウンターに座る。
「大瓶ひとつ。麒麟で」
下唇を噛む力が強くなり、口内に血の味が滲んだ。視線の先に置かれた灰皿を見つめながら、俺は口を開く。
「あのさあ。親父の酒癖のせいで、お母ちゃん、どれだけ泣いてたか知ってるんか?」
二十年の月日を埋める会話を微塵も交わすことなく、俺は感情をぶつけた。
「明子には悪いことしたなあ……」
「今さら詫びたって身勝手なだけやで」
陽気だけが取り柄といった若い店員の女子が、テーブルにビール瓶とグラスを二つ置く。注文が決まったら呼んでくださいと言い残し、笑顔で立ち去った。
親父の手が瓶に伸び、俺のグラスにビールを注ぐ。俺が憎しみ続けた麒麟ビール。畳の上に無造作に転がりまくる空き瓶。忌まわしい当時の記憶。
グラスからわずかに泡が溢れるのを黙って眺めていると、親父は自分のグラスを手に取り、自ら瓶を傾け注いだ。
「お前にはいろいろ迷惑かけたなあ。悪かった。都合ええかも知らんけど、許してくれや」
俺のグラスに軽くぶつけると、親父はひと口で飲み干した。
「ワシなあ、再婚することにしてん」
親父が蒸発してからちょうど十年目の朝、母はいきなりこの世を去った。過労が原因だった。身体が丈夫なほうではなかった母。女手ひとつで俺と妹の二人を育ててきた疲労が爆発したんだろう。
「ビックリせんといてくれよ」
「別に驚かへんよ。お母ちゃんはもうおらんのやし、何しても親父の勝手やろ?」
「違うねん。実は、二十歳の子と結婚することになったんや。お前より十歳も若いねん」
「はぁ? アホなこと言わんといてくれよ」
「驚くのはまだ早いねん。実はな、子どももできたんや」
言い淀むことなく告げる親父の言葉に目眩を覚えた。親父とこうして飲んでいることすら現実味を欠いているのに、追い打ちをかけるように放たれる親父の告白。
「まだあるねん」
「ちょっと待ってくれよ! さっきからベラベラと何をワケわからんこと言うてるねん」
親父は右手を大きく上げた。
「まだ、注文せんでええって。最後までしっかり話、聞かせてくれよ」
「違う違う」
瓶ビールを持ってきてくれた店員の女子が、注文を取ろうと駆け寄る。
「こいつが俺の新しい嫁や。お前の新しいお母ちゃんでもある。よろしく頼むわ」
店員の女子が深々とお辞儀する。
「これからどうぞよろしくお願いします。お腹の麒麟のことも愛してあげてください」
「え? 麒麟?」
「そうや、俺が命名したんや」
得意げにニヤつく親父。呆れ果てる俺。うまく言葉が見つからない。はにかんだ表情を作るので精一杯の俺は、突如として現れた新しい母親に小さく会釈した。

その昔、母に寝かしつけられていた布団の上で、親父のどこが好きなのか尋ねたことがあった。その時、母はこう答えていた。
──ひょうきん者なところ。
親父には恨みしかない。もちろん、今でも親父のことは許していない。ただ、母が好きだった当時のまま、親父は何も変わっていないのかもしれない。
少しだけ底に残るビール瓶を持ち上げ、自分のグラスに注ぎ切る。親父のグラスは空っぽだ。これから俺と親父は、空っぽのグラスに時間を注いでいくのかもしれない。
「すんません!」
俺は手を上げ、新しい母親を呼び止める。
「大瓶ひとつ。麒麟で」

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