私はあなたの亡者となる

私が柴崎に抱かれるのは、完全にお金のため。果たしてそうだろうか──?

「今日は天気が良かったから、近所を散歩してきたよ。チラッと繁華街にも寄れたし、体調は良くなってきてると思うな」
味噌汁をかき込みながら、タケルが嬉しそうに話す。
「ほんと、今日めっちゃ元気そうだね」
「岬のおかげだよ。こんな俺のために、仕事頑張ってくれて、ありがとね」
家賃1万3千円のワンルームマンション。タケルとの平和な生活は、決して裕福とは言えないけれど、満たされた毎日。
マイホーム販売の営業マンだったタケルは、販売目標が達成できないことを徹底的に追求され、上司からの執拗なパワハラを受けた末に、その精神を崩壊させた。正面から人の顔を見ることができなくなり、私の顔にすら恐怖心を抱くこともあった。
そのまま会社を退職。人との交流が難しい状態だから、仕事に就くことなどできない。結婚の準備期間として同棲しはじめた2LDKのマンションでの暮らしを手放し、現在のワンルームに移ってきた。
「最近、残業大変そうだね?」
タケルはそう呟くと、心配と不安が入り混じった視線をこちらに向けた。
「タケルのためだもん。全然頑張れるよ」
「でも、帰宅時間が遅くなると帰り道が危ないから心配だな。最近、続いてるし──」
「大丈夫だよ! 人通りの多い道を選んで帰ってるから。私のことより、まずはタケルのこと。ねっ?」
「そうだね。でも、あんまり無理しないでね」
「ありがと。心配してくれて」
マンションの前を大型トラックが走り抜ける。今じゃ慣れたその振動が、グラスの底に残った麦茶を揺らした。

「俺のこと、愛してるか?」
柴崎は私の上に被さり、激しく私に愛を注ぐ。汗がお互いの肌をつなぎ、ねばり着く生々しい音がホテルの一室に響く。
「愛してる──」
その言葉に刺激されたように柴崎はその運動を強くし、その度に脳に快楽が突き刺さった。
「結局は金が目当てか?」
「──違う」
収入が途絶えたタケルとの生活を維持するためにはお金が必要だった。普通のOLとして勤務する私の収入だけじゃ、到底タケルを守っていくことなんてできない。悩んだ末に出した答えが柴崎だった。
「もう一度、言ってみろ? 俺のこと、愛してるか?」
「愛してます──」
ごめんね、タケル。心の中で何度も呟いた。それは呪文のように脳内でリフレインし、私の思考を支配した。
タケルを守るという恋人役を演じる裏側には、ドロドロと汚れた私がいる。罪悪感を焼き払うためには、柴崎が与えてくれる快楽に溺れるしかなかった。

その日は柴崎との行為がいつも以上に長引いたため、終電はもう走っていない。ホテルを出た後にタクシーに飛び乗った。
大通りからマンションへと向かう道は一方通行で入り組んでいるため、適当な場所でタクシーを降りる。
──タケル、心配してるだろうな。
遠目からでも部屋に明かりが灯っているのが見えた。きっと私を心配して待ってくれているのだろう。こんな私のことを──。
明かりに向かい歩調を早める。界隈でも賃料が最も安い賃貸マンション。オートロックなんてあるわけがない。これだけ貧しい外観だ。泥棒だってスルーするだろう。
廊下に響くヒールの音に気を使いながら、部屋の前にたどり着く。鍵を開け、ドアノブに手をかけたときだった。私の手を覆うように背後から手が伸びた。
身の危険を感じ、咄嗟に振り返る。そこには、ついさっきまで頬を寄せ合っていた顔。柴崎がそこに立っていた。
鼻息を荒げる柴崎は、私の手を押さえたまま、強引にキスをしてきた。優しさを伝えるための口づけじゃない。それは支配者としての荒々しいキスだった。
玄関先の物音に気づいたのか、中からタケルが出てくる気配を感じた。
──最悪だ……。
この世界から消えてしまいたいと願った。現実と対峙する勇気が出ず、力任せに瞼を閉じた。私だけがどこか異世界に飛ばされてしまえばいいのに──。

「岬?」
玄関ドアが開く。タケルがそこで目にした光景は地獄絵図だったに違いない。
タケルは少女のような甲高い悲鳴をあげて、室内へと逃げて行った。その声はすぐに泣き声が入り混じった悲痛な叫びへと変わった。
柴崎は私を押しのけ、室内に踏み入ろうとした。私は全力でそれを阻止する。私の裏切りの象徴である柴崎をタケルに近づけたくなかったから。でも、それだけじゃない──。
柴崎は、タケルを精神崩壊に追いやった、彼の元上司だから。

体格のガッシリした柴崎の暴挙を私が止められるわけがなく。柴崎は土足のまま、タケルが泣きわめく室内へと入って行った。
「おい負け犬。何をメソメソ泣いてやがる!」
「やめて!」
制止しようと、背後から柴崎にしがみつく。
「岬は黙ってろ」
柴崎が自然に私の名前を呼ぶことにさえ、タケルは憎悪を抱くだろう。
「知らなかったのか? お前の女が俺無しじゃ生きられない身体になってたってことを」
布団の中に身を潜めるタケル。現実から隔離されようとしているに違いない。
「ウソだ……」
掛け布団の隙間から、か細い声が漏れた。
「ウソだぁ!?」
嘲るような声色で吐き捨てると、柴崎は上着のポケットからスマートフォンを取り出し、画面を指でなぞった。
「おい負け犬。現実を直視しろ!」
画面には私の裸体が映し出されていた。タケルとの行為では絶対に見せないような、恍惚とした表情を浮かべる私。あまりにも過激で卑猥な姿。
隙間からタケルの片目が覗くのが見えた。
「タケル、見ないで!」
その隙間はすぐに閉じられ、数秒の沈黙のあと、悪魔の断末魔を思わせる叫び声が布団の中から漏れ出してきた。
ウソだ! ウソだ! ウソだ──そう何度も連呼するタケルの悲痛な叫びを聞いていると、心臓がちぎられるほど痛んだ。恋人の心が破壊されていく映像を、眼球からねじ込まれているようだった。その映像はあまりにも残酷で、吐き気すら催した。
「いい加減、俺かこのゴミ野郎かどっちか選べよ」
柴崎はそう言い残し、出て行った。
タケルが準備して待ってくれていたのだろう夕食が、ちゃぶ台から飛び散っていた。お椀からこぼれ出た味噌汁を見ると、涙が一気に溢れ出してきた。
──これは何の涙なんだろう?
お金のためと割り切った柴崎との関係。途中からお金が目的じゃなくなっていたことにも気づいていた。心の中に潜む本音が、涙の意味を消失させた。

私のせいで乱された二人の世界の平和。昨日まで穏やかだった室内には、殺伐とした空気が充満している。
ただひたすらに無言で床にへたり込んでいると、タケルの潜る掛け布団がめくれ上がった。
見上げるとそこには、血走った目のタケルが立っている。紅潮した顔。無言で私のそばに近寄ってくる。ギリギリと音が鳴るほどに強く握りしめられた拳が打ち下ろされた。
あまりの痛みに声が出そうになった。やめてと懇願しそうにもなった。ただ、タケルが負った痛みの激しさを思い、その声を飲み込んだ。
「なぁ?」
声に反応し、タケルを見上げる。
「何もかも破壊しやがって!」
もはやそこには、いつもの穏やかなタケルはおらず、激昂し憎悪を燃やす人間がそこに立っているだけだった。
「ごめん──」
言いかけた私の顔面に、再び鈍痛が走る。
顔を覆うように手のひらを被せると、その手を振り払い、押し倒してきた。
タケルは馬乗りになると、何度も私を殴りつけた。見上げるその顔の背後には蛍光灯の明かり。逆光に照らされ神々しさすら感じた。それが私に死を予感させたし、諦めも抱かせた。
殴る手が休止した瞬間に、馬乗りのタケルを押し倒し、這うようにして玄関に向かった。
ようやく冷静になると、急に恐怖が訪れた。後ろから手が伸びてきそうで振り返えられない。ただ不思議と、背後からはタケルの声も私を追う音もしなかった。
裸足のまま玄関を飛び出した私は、柴崎にメッセージを送った。
『お金なんか要らないから、私を抱いてください!』

その夜、私は無心で柴崎に抱かれた。
愛でられることも乱暴にされることも、その行為すべてが私を修復してくれた。柴崎の躍動が私に愛を伝え、その動きに呼応することで愛を返した。
顔面への殴打で血が滲む涙を見て妙な興奮を覚えたのか、柴崎の身体は火傷するほど熱を帯びていた。
「お前は愚か者だな」
柴崎から浴びせられた言葉。なぜかその言葉は私を落ち着かせ、身体が一気に脱力した。
窓の向こうが白みはじめ、朝の訪れを知らせる。新しく、そして汚れた一日が始まろうとしていた。

腕を絡ませ、ホテルを出る。灰色の空からは大粒の雨。タクシーを捕まえる間だけだからと、柴崎は傘を差さずに歩きはじめた。
離れないようにピッタリとくっついて歩き出すと、柴崎が急に立ち止まった。
「どうしたの?」
柴崎を見上げる。その視線は私ではなく、真っ直ぐ目の前を見つめていた。
視線の先を追うと、そこには雨でビショ濡れになった女がひとり立っている。
「裏切り者……」
アスファルトを打つ雨の音を縫うようにして、女の言葉が耳に突き刺さった。
柴崎には妻もいるし子どももいる。それは聞かされていたから、こうなることもどこかで覚悟していた。
柴崎は特に焦る様子もなく、その場に立ち尽くす。
「自業自得だな──」
小声でそう呟くと、目を閉じ口元を少し緩めた。
女に視線を戻すと、その手にはナイフが握りしめられていた。雨が降る早朝の灰色に照らされ、それは鈍色に輝いていた。
女は一切の表情を変えることなく、柴崎に駆け寄る。彼女がまとった冷静な狂気が、その動作をスローモーションに感じさせた。

ナイフの刃先は一直線に柴崎の腹部にめり込んだ。白いワイシャツに真っ赤な血が滲み、広がった。
こちらに向けられた女の視線に気づく。吸い寄せられるように目を合わせると、その目は誰かと同じ憎悪に染まっていた──タケルと同じだ──思わず目を伏せた。
女はナイフを引き抜く。雨に濡れたアスファルトに崩れ落ちる柴崎。その様子を見て満足したのか、微笑を浮かべながら女はその場から立ち去った。
私は空を見上げ立ち尽くす。瞼と頬に雨と涙を感じながら、いつまでも立ち尽くす。
通り過ぎる人たちが声を上げ、やがてその声は数を増す。サイレンの音が鳴り響いた。大勢の警察官。野次馬。その中から、懐かしい声がした。
──タケルの声?
警官たちのすぐ後ろで、タケルが泣きじゃくりながら叫んでいる。
「岬っ! ほんとにごめん! こんな俺を許してくれ! 俺が岬をそうさせてしまったのに、すべての罪を岬に背負わせてしまって。ほんとにごめんっ!」
タケルの心の中に私の居場所はあるのだろうか。警官に抱きかかえられながらパトカーに乗せられる。その間もずっと、タケルの叫ぶ声が聞こえた。

タケルとの生活が戻ってきた。ただ、以前のような明るさはそこにはなく、沈鬱な時間だけが室内を流れた。
「今日の味噌汁、どう?」
タケルが尋ねる。
「うん──」
声にならない声で返事をする。こんなことの繰り返し。
床に落ちたガラス細工のようにバラバラになった日常は、もう二度と元に戻ることはないだろう。この部屋にいる限り、タケルに殴られた痛みと、タケルを傷つけてしまった罪が、呪縛のように私の身体を縛りつける。
空になった食器を重ね、流し台へと運ぶタケル。ちゃぶ台の上に乗せたスマートフォンが微かに震え、メッセージの受信を知らせる。
『無事、退院したよ』
それは、柴崎からのメッセージだった。
彼が一命を取り留めたことは、担当の警官から聞かされていた。ただ、柴崎との関係を断ち切ることを決意した私は、彼に連絡を送ることはしなかった。
「どうしたの?」
背中からタケルの声がした。
見つめる画面の表示が切り替わり、柴崎からの電話の着信を告げる。
私の身体は一気に熱を帯びた。
「ねぇ?」
どこか別の世界からタケルの声がする。私はスマートフォンを強く握りしめる。体温がさらに上昇する。脳に、胸に、下腹部に、足先に、痛みにも似た炎が燃えたぎる。
気づけば私は立ち上がっていた。
「大丈夫?」
またしても別の世界からタケルの声。もはや私の視界にタケルはいない。
「ちょっと、コンビニ行ってくるね──」
視線を合わせるでもなく、タケルの横を通り過ぎる。
呼吸が荒くなり、徐々に動作が早くなる。柴崎からの着信で震えるスマートフォンだけを右手に握りしめ、玄関に向かう。
ドアを飛び出すのと同時に、画面の通話ボタンをタップした。
「今すぐ抱きしめて!」
送話口を目がけて衝動的に叫んでいた。
サイフも服も家具も何もかも全部。後悔も倫理観もすべてをあの部屋に置き去りにしたまま、私はタケルの元を飛び出した。
この先どうなってもいい。この先なんかなくたっていい。とにかく今すぐ柴崎に会って、思いっきり抱きしめて欲しかった。使い捨てのおもちゃのように、乱暴に乱雑に扱ってもらいたかった。二度と純粋な身体に戻れないほどに汚して欲しかった。
「愛してるよ」
受話口から柴崎の低い声が響く。その声は完全に私の脳内を満たし、とろけるような快楽と刺激をもたらした。
もう、どうなっても構わない。私はあなたの亡者となる。

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