高齢化社会

我が良き人生だった。
こうして今、妻に看取られながら、人生の終焉を迎える。波風の多い一生ではなかったが、幸多き人生。それもまた良き哉。
かすかに妻の声が聞こえる。ただそれももう朧げ。命の灯火が消えかかっているのがわかる。
それにしても妻には迷惑をかけた。仕事一筋のこの性格を理解し、気丈に家庭を支えてくれた。残された余力があるならば、妻に感謝の気持ちを伝えることに捧げたい。その刹那に、この命が果てたとしても悔いはない。
またしても妻の声。どうやらワシを呼んでいるようだ。妻が眺めるワシの姿は、さぞ弱々しく映っているものだろう。
またしても妻の声。はて、これから逝く人間をそれほどまでに呼ぶだろうか。
「おじいさん?」
妻の声に力がこもったのか、その声が鮮明に聞き取れた。
「お尋ねしたいことがひとつありまして」
珍しい。ワシの知る──大切な人をあの世へ見送る終焉の場面──では、こんな台詞はなかったように思う。その違和感と向き合う間もなく、妻が続けた。
「このお写真なんですけれども」
お写真? 妻よ、また酷なことを言いよる。もはや身体の自由は効かない。お前の顔を眺めることも、お写真とやらを覗き込む力も残されていない。
「とても綺麗な女性でいらっしゃる。仲睦まじい関係だったご様子ですわね。あらま。お裸で抱き合っているお写真まで」
んぐ。熱を帯びた唾液が喉の奥から逆流してきた。まずい。いや、ヤバい。ワシが道ならぬ恋をしとった頃の写真だ。なぜ妻がそれを? しかも、どの女との写真だろうか……。
「しかも、お一人だけじゃないんですのね」
クソが。すべてバレていたか。身体が熱くなる。久しぶりに感じる生へのエネルギー。
「お相手の中には、お年を召されて亡くなられた人もいるそうね。あの世で再会して、またお裸でくっつかれるのかしら?」
違う、と言いたい。そんなわけない、と言いたい。ワシが愛しとったのはお前だけだ、と言いたい。が、絞り出しても声が出ぬ。
「ご存命でいらっしゃるお相手の皆様は、おじいさんのお葬式にお見えになるのかしらね。破廉恥な葬儀になりそうね」
うふふ、と妻が不敵に笑う。
病室の入り口が急に騒々しくなった。
「旦那様の心電図に乱れが! 停止寸前だった心拍が、異常なほどに暴れているようで。何かおかしな様子はなかったですか?」
慌てた声色の医師が妻に尋ねる。
「ええ、特に」
嘘を言え。ワシにとっては修羅場。人生の終幕を迎える間際に、とんでもない事態が巻き起こっているんだ。特に、とは何だ!
あっ。
SNSでやり取りした女性との履歴が、パソコンに残ったままだ。まずい。いや、ヤバい。あれを見られたら、裸で抱き合っている写真どころの騒ぎじゃない。
「SNSの中身も、すべて見させていただきました。わたくしの知らない、変態なおじいさんがいらっしゃいましたわ」
すべてが終わった。これから人生を終えようとする人間が吐く言葉じゃないかもしれないが、あれを見られちゃおしまいだ。
「おじいさん?」
妻の声が丸みを帯びた。
「わたくしね、おじいさんの悪行をずっと知っていましたの。そして、そのすべてに目を瞑って参りました。涙した夜がどれほどあったことでしょう。歯ぎしりして眠れない夜が幾度あったでしょう。お察しくださるかしら」
つい数分前に、我が良き人生などと戯言を言ってのけた自分を恥じた。人生のすべてを逆再生し、その時間のすべてを妻への謝罪の時間として使いたい。妻よ、すまなかった。
「それで、ひとつご相談があるの」
嫌な予感がした。きっとまずい相談事。いや、ヤバい相談事に違いない。
「仕返しと言ってはなんですが、おじいさんが亡くなったあと、他の男性と共に生きたいと考えているのです。復讐の意味も込めて、少しはその方と破廉恥なことも──」
「バカタレ! 俺が許さん!」

「奥様、当院の生命再起プログラムにご協力いただき、ありがとうございます。これでご主人の寿命も少し伸びましたね。それにしても、お見事な演技でした。」
医師は老婦の肩をさすった。
「あんな浮気性の主人ですが、わたくしの愛した、たった一人の方ですから。長生きしてそばに居てもらわないと」
老婦は柔らかい微笑みをたたえ、「いいね!」と言いたげに、親指を突き立てた。

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