隣人の歯ぎしり(改訂版)

また、はじまった。隣の奴の歯ぎしりが。

俺はあの日の上司の恐怖する顔を思い出し、首元の皮膚をかきむしる。そして、命を乞う情けない悲鳴を。
爪と皮膚の隙間には、血が滲むかさぶた。それを見つめていると、脳内にこびりついた上司の顔がシホの顔に入れ替わる。顔一面を涙で濡らす彼女。命を乞う甲高い悲鳴。耳鳴りのように脳に突き刺さった。

夜になると隣人の歯ぎしりが、ギシギシと響いてくる。みんなが寝静まった頃を見計らうかのように、一定のリズムでその歯ぎしりは毎夜軋みはじめる。
──何をそんなに力むことがあるんだ? 生きる意味もないこの世界で?

「お前はいつまでたっても無能だな」
「──すみません」
「何度言わせば気が済むんだ? 俺はお前みたいな無能な人間を相手にしてる暇はないんだ。わかるだろ、それぐらい?」
「はぁ……」
「お前はバカか?」
北森の顔が醜く歪む。奴は俺の上司で、俺は奴の部下。それだけの関係。ただ、社会はこいつと俺を、上と下で区別する。どうあがいても抵抗できない俺は、いったい何に縛られているのだろうか。
「おい、聞いてるのか? お前みたいに売上もロクに上げられない奴が会社にいちゃ迷惑なんだよ。能力もないくせに社会に出てくるなよ、この給料泥棒!」
目の前のおっさんが血管を浮かべ吠える。なぜか俺を罵るセリフのすべてが、くだらない冗談のように感じ、俺は吹き出してしまった。
「何を笑ってやがる。薄気味悪い。死ねよ、お前みたいな人間」
俺はこの瞬間のために持参した──俺の主張──をポケットから取り出し、強く握りしめると、北森ににじり寄った。

それにしてもここは本当に無機質だ。色のない空間は、人間から感情を奪い去っていく。寝そべったまま灰色の天井に向かってボールを投げてみる。もちろん、空想の中で。それは重力と呼ばれる自然の摂理に従い、俺の顔を目がけて落ちてくる。なるほど。天に向かって唾を吐けば、自分の顔面に降りかかってくるわけだ。

今夜も聞こえてくる、隣人の歯ぎしり。
寝室を共にでもしていたら、迷惑で仕方がない音だろう。この空間にいると、心地よくも感じてしまうから不思議だ。
他人を意識することで自分の存在を確かめられる。たとえそれが歯ぎしりの音だろうが。他人との差分により、自分の輪郭が描画され、それが自分なのだと認識できるから。
出口のない思考を垂れ流しながら歯ぎしりを聞いていると、眠気が訪れる。羊の数を数える手間が省けるよ。

「もう、会社には行けないんだ」
「え!? 次こそは頑張るって約束したじゃない。何考えてるの?」
「──ごめん」
「毎回毎回、謝れば済むとでも思ってるの? この大ウソつき! 結婚するために頑張るって言ったの、そっちでしょ?」
女の顔はこうも変わるものなのか。愛する恋人を見つめるときの表情と、憎い裏切り者をなじるときの表情。後者はとても醜く歪だ。
「次こそは頑張るから──」
顔に冷ややかな衝撃が走った。どうやら顔面に水をかけられたようだ。あぐらをかいた足の上に水が滴り落ちる。むき出しのフローリングが濡れる。彼女に視線を移すとそこには、血走った目をしたシホ。彼女は小さな声で呟いた。
「このゴミ人間が……。死ねよ」
まさか北森と同じ日にこの瞬間がやってくるとは。俺はこの瞬間のために持参した──俺の主張──をポケットから取り出した。濡れたフローリングの冷たさを足裏に感じながら立ち上がると、それをシホに振りかざした。

隣人の歯ぎしりが聞こえなくなってから数ヶ月。心なしかいつもと違う静けさに違和感を覚えつつ、眠りに落ちかけたその時、男たちの叫ぶ声が聞こえてきた。
「逃げたぞ! 探せ探せ! どこから逃げやがったんだ!」
鍵と鍵がぶつかり合う金属音。緊迫した足音。慌てふためいた声と怒号が飛び交う。
「49番だぞ! 早く探せ! まだそう遠くには行ってないだろう!」
心当たりのある呼称番号。俺の隣人だ。
刑務官たちの叫ぶ声で俺は理解した。隣人は歯ぎしりをしていたんじゃない。脱獄するために、穴を掘り続けていたんだ。まるで、映画のストーリーのように。
「部屋の中に穴が開けられてる! 奴はここから逃げたのか? 果てしなく続いてるぞ、穴が!」

思った通りだ。隣人は来る日も来る日もギシギシと、閉ざされた社会に抵抗するように、ここではないどこかへ思いを馳せていたんだ。
隣人は何を望んでここから脱獄して行ったのだろうか。すがるものを持たない俺は、かすかな嫉妬を、隣人に抱いた。
未来の俺にはどんな世界が待っているのだろう。変われるのだろうか。そして、何かを変えられるのだろうか。あの隣人のように。
すぐ隣で異常事態が起ころうとも、非情なほどに無関心な灰色の天井を見つめながら、奥歯をギシギシと噛み締めてみた。

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